交通事故に遭った子供のことを引きずっている友達
以前自分が少し眼を話した隙に、車の事故で子供を亡くした友人がいます。今でも苦しんでいるようなので、どのように声をかけて励ませばよいか悩んでいるのですが・・・
魂や輪廻転生といったもののお話ができて、説明できると少しは気が楽になるのではと思うのですが、お答えいただける方、いらしたらご回答をよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
懸命に祈る。それがいま出来ることではでしょうか。
とても難しい問題です。ただ、言葉は時として
こちら側の思いとは別な思いで相手に届くことがあります。
おなじ「辛いね」という言葉でも、相手が同意として受け取る
時もあれば、「上から目線」と受け取られる事もある。
とてもむつかしいのです。
輪廻のはなしや魂のはなしは、おそれいりますが、お寺さんに
おまかせした方が宜しいのではないかと思うのです。
いまはただ、一緒に亡くなったお子様への、尊い祈りを
共に捧げて下さることを、お寺側としては、あなた様に
お願いしたいと思います。
輪廻も魂も、へたをすれば、そこに「執着心」というものを
生みかねません。執着心とは留まる心です。
お子様の喪失に留まったまま、輪廻や魂のはなしをしてみても
場合によって苦しみを増やすことにもつながりかねません。
一歩進めるには、御自身の不注意でお子様を失ったことも
ぜんぶひっくるめて、供養の祈りをささげることです。
どうか、お子様の行った世界が、安らかでありますように。
いずれ行くであろう、私たちが、必ずまた、お子様と
逢えるように。ただ、ただ、ただ、ただ、
その祈りを、あなた様はご友人と一緒に祈って頂きたいのです。
それはあなたにしか出来ないことです。
以下は私が聞いた、とあるお子様を失ったお父様に向けて、
ある高僧がお話なさった言葉です。
「わたしたちは、明日の事がわかりません。
だから、天気予報を見ます。それは、明日が来ることを
信じて疑っていないからです。
誰もが、明日は善き日となるようにと、願って生きている
ということです。
死はわたしたちにとっての明日です。
わたしたちは、誰もが死に向かって歩んでいます。
死はわたしたちにとっていつ来るかはわからない世界です。
明日の世界、そこは亡くなった人の世界でもあります。
ならばその明日の世界が、愛する人の死した後の世界が
善きところとなるように、私たちは信じて祈り生きることが
大切なのではないでしょうか。
いつか、御子息と出会えると信じてその日まで、
懸命に「今日」を生きる。懸命に、今日を善き日として
生きねば、明日は、善き日にはなりません。
懸命に生きて、懸命に死ぬこと。これが、亡き人と出会える為に
私たちが今出来ることです。」
以上、御参考となれば幸いです。
さちあれ、さちあれ。合掌
誰のせいでもありません
フジイさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。
質問の文面を拝見した感じですが、フジイさんがご自身を責めておられるのではないでしょうか。交通事故により幼い命が消えてしまったことは悔やまれますが、もしフジイさんが目を離さなければ交通事故に遭っていなかったとも言い切れません。別の場所で、別のタイミングでそうなっていたのかも知れません。
誰のせいでもないのです。
今は、ただ手を合わせるしかないように思います。時間が解決してくれます。
弘法大師空海も、最愛の弟子を若くして亡くしました。普段なら流暢な文章を書く弘法大師空海が「ああ、哀しいかな、哀しいかな。重ねて哀しいかな」という文しか書けませんでした。それほどに深い悲しみの中にいるときは、祈りしか通じないのです。
心静かに手を合わせてあげてください。合掌
子供と 一緒になれない 別々にもなれない ならば 共にあゆむ
喪失感
被害者意識
自責
後悔
フラッシュバック
この5つにそれぞれ向き合って頂くか、
参禅をして自分の思いから救われることが望ましいです。
まず、自分が救われるためには、二つを選択してもらうことです。
「あなたがいつまでも悲しんでいて、周りの人や、自分を苦しませることが、本当にその子の供養になると思うか?」
悲しいですけれども、私達の人生は続いています。
その中で、苦しみの綱を頼りにのぼっていっても、自分を責めることで、それを無かったことにしようとしているようなものです。ですが、それは無かったことにはならない行為です。
「ではどうすればいいか?」
お子さんが亡くなられたことは事実。
加害者であっても、罪を償わなければならない。
相手にも家族があったはずです。相手もおそらくは予期せぬことだったはずです。
どちらも、本当に悲しい事故でした。
極端に申し上げれば、どちらも被害者… でも、どちらも加害者・被害者になるべきではなく、なってはいけない。事故のケースは、故意ではないのですから、どちらも被害者とは言えません。
だから、誰かを責めるというのは、誰も救われないから、相手も自分を責めることはやめる。
失われた、という面ではなく、ただその通りであったという事実に目覚める。
今も、その子との関わりは続いているはずです。亡くなったその子と、今、どうかかわっていくかが彼女の人生。
そこに、色々な思いを重ねすぎて、ご自身でも分からなくなっておられると思います。
自分を責めても、後悔してもいいです。
でも、いつまで、それをし続ける「べき」であるか。
そんな事をいつまでやって心の中で繰り返していても、人生は何も変わらない。
だからこそ過去を取り扱う自らの思いから自由になり、自分自らを本当に生きる。
一心同体だったお子さん。それでもそれでも、命は別存在なのです。
そして今与えられている機縁、仏縁を大切に生きてゆくことで、必ず救われます。