生きる権利と死ぬ権利
病院の診断で、双極性障害に加え、境界性人格障害やアダルトチルドレンと言われました。
疲れました。
ただただ生きる事に疲れてます。
何を頑張っても上手くいかず、病気のせいで差別され、親との関係に悩み…
生きる権利があるなら、死ぬ権利もあるはずなのに、何故認められないのでしょうか。
肉体の苦痛には尊厳死が与えられるのに…
苦痛なまま生きろって残酷だと思いませんか?
もう頑張るの、疲れました。
生きるのも疲れました。
薬飲む生活も疲れました。
不安やイライラ、無気力になるのも疲れました。
解放されたいです。
死にたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
権利はある。それを自由と呼ぶ。
生きている、いや生かされているという事実にほとほと疲れ果てたのですね。
さて、権利という表現が適切かはわかりませんが、
生きる権利があるならば死ぬ権利もあるでしょう。
ただ、「権利を行使」できるかどうかは「ご縁」しだいです。
あなたは生まれたといと思って生まれてきたのですか?
そうではないでしょう。
生まれてきたという事実がある。それがご縁です。
死にたいと思っても死ねるかどうかはわかりません。しかし死にたいと思う自由はあります。
それは残酷ですか?
そうとも言えるでしょう。
しかし、いつだって私たちには内心の自由、つまり「どう思うか」という自由が与えられているのです。
残酷だと思いながら生き、やがて死に果てていく自由も。
希望をもって生き、そして死んでいく自由も。
降りかかってくる境遇にどういう態度で臨むかは私に決める自由がある。その態度から始まる具体的な一歩は、ご縁の中でどうにも思い通りにならないものだけれども、思いがあるかないかで歩みは変わってくるのだと私はいただいております。
「こうしなきゃ」という思いから自分を解放しましょう。
「こうしたい」というあなたの願いを、あなたのいのち自身に聞いていきましょう。
おっしゃるとおりかとも思います
拝読させて頂きました。あなたのおっしゃるとおりかとも思います。
生きる権利があるのに死ぬ権利はない、確かにそうですよね。
ただ死は刻々と休むことなく私達に近ずいています。それは権利以前の現実です。
私達は今死に向かって突き進んでいることに間違いないです。
それぞれ与えられた生命があり、巡り合わせられています。
長いつらいようでも人の一生はとても儚く短いものです。
あなたにとって病を抱えながら生きることは大変長い苦しみかもしれませんが、それでも与えられた生命です。そしてあなたには与えられた使命や目的があると思います。
病に向き合いながらどうか人が生きることについてこれから学んで頂きたいと切に願います。
私はあなたがいつの日か病を乗り越えて生きる道を見つけて目的を見いだし、円満な人格を持って豊かな人生を歩んで頂きます様にと心からお祈り申し上げます。
生きる死ぬは権利ではない
私たちは自分で生きていると思っている。自分の判断により生きていると。しかし、生きているのではなく、生かされているということに気づいて頂きたい。
自分の力の及ばないところで、この世に生まれ、なぜだか大きくなり、心臓は動き、怪我をしても皮膚は再生し、呼吸をして、瞬きをして、声はどこからともなく出てくる。目を開けばものが見える。音があれば体の中に入ってくる。物を口に運べば味がする。さわれば触った様な感覚になる。線香があれば香る。全て私たちの思い通りにならないところつまり法により生かされているのです。
何一つ自分なんてものを立てて生きてない。
それなのに、自分というもの(自我)を立てて思い通りにしようとするから、イライラもする。苦しむのです。まず、自分(自我)ありきの生き方をやめると、優しく、穏やかに、楽に生きることが出来ますよ。