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仏教と神道どちらを信じればいいのか悩んでいます。

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初めて質問させていただきます。

御坊様に相談していい内容なのかとも躊躇しましたが、他に相談できる相手もいないため、筆を取らせていただきました。
ご無礼となってしまいましたら申し訳ありません。

私は家庭の事情もあり、小さい頃から宗教に関心がありました。
去年成人し、改めて自分の信じる道について考えることが殊更多くなり、仏教や神道に関連した本を読んだり、ネットで調べているうちに私はどちらの道を信じればいいんだろう、と結局悩むことになってしまいました。

どのような視点で、基準で自分の信じる道を選択したらよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

両方やればいいと思います

ご質問いただきましてありがとうございます。

私たち日本人のご先祖様は1000年以上、両方やってきました。そこを信じましょう。お坊さんでさえ、神様に仏道修行の無事をお祈りするんですよ?きんぴらさまが両方やって何の問題がありましょうか。(浄土真宗さんだけは神社のお参りを勧めない場合があるので注意。)比叡山(仏教)では山王権現(神様)、高野山は社丹生都比売神社、永平寺では白山権現、建長寺は半僧坊権現などなど、お寺に鎮守の神社があるんですよ。

むしろ仏教では他者をのけ者にする心こそ悪心です。神職さんもぶっちゃけ寺というテレビ番組で「自分と違う立場にうなずく勇気が大切」とおっしゃっていましたよ。そういう基準で幅広く学んでみてはいかがでしょうか。
そもそも「1つの宗教を信仰する」という感覚はキリスト教やイスラム教のような一神教の感覚です。タイではピーという精霊信仰と仏教が習合してますし、インドではヒンドゥー教ヴィシュヌ神の25の化身のうち24番目がお釈迦さまという感じで習合しています。中国で道教のお寺に行くと、仏教の金剛般若経というお経が読まれていたりします。そんなもんですよ。いろいろやってみる中で、やがて自然に落ち着くところに落ち着くでしょう。

そして結局は本にどう書いてあるかではなく、どんな人と巡り合うかの問題です。宗教や宗派で足切りせず、良いお坊さんや神職さんとの出会いを大切にしていただきたいと願います。その意味ではhasunohaでのご縁を出発点に、仏教から始めるのもオススメです(笑)

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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仏教は本当は「仏教」を学ぶことではなく自己を学ぶ

ある教師の言葉
「皆さんは国語や英語を学ぶのではない。国語や英語で何を学ぶかが大切なんだ。」

仏教は、仏教を学ぶことではなく、自分自身を学ぶことなのです。
「仏道をならうというは自己をならうなり」 道元

世界のあらゆる宗教の中で、仏教が優れている点は、外のなにか神様らしいものを拝むことが目的ではなく、この自分自身の本来の姿に出逢うことを目的とした宗教である点です。
宗派によっては、差異があるとは思いますが、次の言葉をよーく熟考して頂きたいと思います。
「そもそもお釈迦さまは仏教を信じていた訳ではない」

これを、ご理解いただけるでしょうか?
これは誤解を招くかもしれませんが、本当にそうだと思いませんか?
お釈迦さまは私たち日本人がいうところの「仏教」とか言う教えを学んだ人ではないからです。
ここは日本人の多くの方が誤解をされ、着目されない処です。

お釈迦さまが悟りを得られて、説法されていた頃ころは、仏教などという言葉もありませんでした。「仏教書、仏教語一字も無くして」ただ自分を明らかにして悟りを得た、覚者の教えです。

自分自身を、深く見つめ、思いの正体を見抜き、思いから自由になりあらゆる苦しみから救われ自己の本来の姿に至った方=ブッダのおしえです。
それを学んでいた弟子たちも「仏教」をまなんでいたのではありません。
自分の苦しみを何とかしたいと、自分を学んでいたのです。
ゆえに学び、信じるべき対象は、仏教というものではなく、自分自身。
自分自身が本来の自己に目覚め、お釈迦さまと同じく、あらゆる苦しみから・思いから自由になりブッダに成ることが仏教の本義です。

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おきもち

日本は神仏習合の国です

きんぴらさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

仏教と神道のどちらを信じた方が良いのか迷っておられるのですね。

日本は仏教と神道が融合した世界的にもめずらしい国です。
山にも川にも土地にも神がいると信じ、八百神を信仰します。五穀豊穣であった御礼に盛大に祭りを行い神輿を担ぎます。神社と隣り合わせで寺院が建っています。寺院の守護をするのが土地を守る鎮守の神です。互いに守り守られています。

仏教でも山川草木悉有仏性を説きます。山にも川にも仏の心があるのです。

仏教と神道では根本的な考え方に相違がありますが、日本に於いて互いに相補関係にあると私は考えています。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...
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仏教は悩み苦しみをなくす方法論

仏教は、悩み苦しみをなくす方法論を説きます。

神道にかぎらず、他の神様を信じている方でも、仏教の説くテクニックは使えます。
だから、神仏両方を信じても可、です。
ただし、仏教では迷信や効果のない修行などに執着して盲信するのも煩悩(悩み苦しみの原因)だとされます。
神道を信じるのが悩み苦しみの原因になる可能性がありますので、あまり真剣に神道を信じないほうがよいです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

多くの回答ありがとうございました。
わたしの中のモヤモヤが一つ一つと読むうちに軽くなっていき、改めて自分自身としっかり向き合おうと思えました。
本当に、ありがとうございました。

「宗教について」問答一覧

伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

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牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

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科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

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宗教について

お付き合いをして3年目、結婚を将来的に考えている20代後半の彼氏がいます。 結婚に向けて話を進めていく中で、 彼氏のお母様が熱心な新興宗教の信者なことが発覚しました。 彼氏は生まれた時から強制加入されているようですが熱心ではなく活動などにも参加していません。幽霊会員のような状態です。 彼氏はお母様の熱心さに嫌気がさして出身地から遠い所で暮らしているので日常生活で相手の親御さんが尋ねてきたり勧誘してきたりはあまりないと思っていますが… 私の父親が宗教関連断固拒否派です。 彼のことはずっと知らせていて近々食事だけでもするという話も出ていました。 私自身は信仰の自由はそれぞれ個人の自由かと思っているので勧誘されても入らないことは頻繁に伝えて固い意思でお断りすれば良いかなと思っていますが… 彼氏のお母様は私の入信を望んでいる様子だそうです。 (彼氏は宗教関連の話を一切私にしないで欲しいとお母様にきつく言ったようですが聞かない様子だそうです) 父親の反応が怖くてその件を言い出せない状態ですが、母親にも相談したところ「考えが甘すぎる」と言われてしまい結婚は愚か食事会すら猛反対されてしまいました。 私の結婚に対する考えは甘いのでしょうか?

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なぜ祈る?祈りと願いの違いとは?

 いつもお世話になっております。  最近、気になっています。人は、なぜ祈るのでしょうか?  私は毎日、私がお世話になっている精神科医療スタッフさんが 安全にお勤めできるように、また、ストレスのため体を壊して しまった友人が早く回復しますようにと祈っています。  最後に自分のために祈ったのは、いつだったか。といった ところです。  あるお坊さんが、 「祈りとは誓い。『私は、○○をします。お見守りください』と、 神(仏)だのみではなく、自分が頑張るのを見守ってもらう」 とおっしゃっていました。私は、本来の仏教は神秘主義に傾倒した、 現実逃避の教えではないんだ。と安心しました。  しかし現実は、祈りや寄進が「自己愛の増幅」に繋がってしまって います。 「私はこれだけ○○様にお祈りしてるんだワ!」 「私はこんなに○○寺にご寄進したんだワ!」 と、ナルシストになってしまっているのです。  だから、信者間でのモラルハラスメントや、不倫や性暴力の 横行といった、これが宗教者かと思われる、アリエナイ事態 が各所で乱発しています。彼ら彼女らからは、本来宗教者が 持つべき「謙虚さ」が欠落しているのです。  現に私は、色々なお寺で色々な嫌な事をされています。  まともに祈って努力して頑張っているのは、医学生さんや 法学生さんくらいでしょう。  現に仏教系の大学は、偏差値が低い所ばかり。まあ、偏差値 というのは倍率のような側面もあり、志望者さんが多い学校ほど、 「きりがないから優秀な子から…」と高くなるようですが。  昔、陰謀論は宗教が担っていたそうです。陰謀論にはまる人々は、 「私は真実を知っている」「世界は間違っているが、私たちは正しい」 と驕ります。そして彼らは、科学が嫌いで怠け者です。  仏教では、 「あらゆる事象には科学的な原因があるから、呪いやたたりなど 怖くない」 と説いていると聞きますが、これを理解している人が、どれだけ いるでしょう?  もっと言いたい事はありますが、長くなるのでここまでに します。  私は祈りを捧げるとき、周りへの感謝、そして、頑張ります、 という気持ちを大切にしたいと思っています。そして、祈ったら、 次は現実的なアクション。間違っていますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ