hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お守り等の返却について

回答数回答 3
有り難し有り難し 22

去年、志望校合格のためにお寺でお守りを頂きました。
お守りは郵送して頂いたのですが、そのときにお香と、お寺やお守りの案内も同封されていました。

受験は残念ながら不合格で、現在浪人生です。
お守りをお返ししたいのですが、お寺まで遠いので郵送させて頂きたいと思っています。

質問ですが、お守りと一緒に郵送されたお香やお寺やお守りの案内はどのようにすればよいのでしょうか?
お守りと一緒に郵送するのがよいのでしょうか?
また、お香を焚くときに使ったお香立てはどうすればよいでしょう?
心付けは必ずつけたほうがよいでしょうか?

また、以前別のお寺にお守りを返しに行こうと思って用意した心付けを入れる小さな袋は、使用しないものは処分していいのでしょうか?

よろしくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

すべてゴミ箱でけっこうです。

しきたり等を気にするのは煩悩(悩み苦しみの原因)です。
現に、悩んでいるから相談されているのでしょう。
お守りはただの物質です。
ゴミ箱に捨ててけっこうです。
お香はお香として使ってください。
余ったら、ゴミ箱に捨ててけっこうです。香立ても、文書もそうです。
金封入れや封筒は、再利用するなり処分するなりご自由に。
あなたが、悩み苦しみから解放されますことを願っております。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

結果がどうであれ、見守ってくれているのがお守り

Q質問ですが、お守りと一緒に郵送されたお香やお寺やお守りの案内はどのようにすればよいのでしょうか? お守りと一緒に郵送するのがよいのでしょうか?
A(^<^)用が無くなったら捨てて頂いて結構です。

Qまた、お香を焚くときに使ったお香立てはどうすればよいでしょう?
A今後も勉強時など、心を落ち着けるために時々使ってみてください。
 勉強前に、まっすぐ立てる。誓願を立てる。気持ちを真っ直ぐに立てる、などと願いを込めてお立てすると良いでしょう。

Q心付けは必ずつけたほうがよいでしょうか?
A出来ればそれが望ましいです。

Qまた、以前別のお寺にお守りを返しに行こうと思って用意した心付けを入れる小さな袋は、使用しないものは処分していいのでしょうか?
A何かにご活用ください。どんな、結果であれ、苦しみであっても、それをバネに活かす、やる気に変える、活用、転用するのが、受験に勝つための大切なスタンスです。
捨てたほうが、気楽なら捨ててください。

なるべく、小さなことは気にせず流すことですよ。
ベストを尽くすことです。ベストを尽くせば後悔はありません。
頭は学んだこと、覚えたことしか、アウトプットできません。
頭を最大限に使うためには、時折、自分の時間を持って、心を鎮めることです。
今年はきっと受かるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

もし、そのまま捨てるのが偲びないならば。

もしただ捨ててしまうことに心が揺らぐようでありましたら、
先ずはお守りを下さったお寺さんにどのようにしたらよいかを
訪ねてみてはいかがでしょうか。お電話であれば、御対応
下さるかと思います。おこうたては、例えば仏具屋さん、葬儀社さんに
問い合わせをして頂き、預かったりして頂けるかを確認して頂いたらと
思います。
合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

皆様、回答ありがとうございます。
御礼が遅くなり申し訳ございません。

処分するものは処分し、どうしても気になるお守りはお寺に郵送し供養して頂くことにしました。

ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ