死にたいほど苦しい
「死にたいな」
と、思うことがよくあります。
でも、実際自殺したいかというと、そうではない気がします。
夫の病気、障害、介護、ほぼ一人での子育て、頑張ったけど失敗しちゃったみたいで、息子は道を踏み外し、私の心は自分以外の家族の心配と、何とかしなきゃという責任で押し潰されそうです。
私はたぶん、
「死にたいほど苦しい」
と、誰かにわかってほしいのです。
「死にたい」
というと、残された家族はどうすればいいの?
と、いう人がたくさんいますが、
私が死にたいと、死んだ方が楽なんじゃないかと思うくらい、生きているのが辛いとき、
「助けて」
と、言っても、誰も助けてなんかくれないのに、
どうして私はその人たちのために生きなければいけないのですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自利利他円満
「死にたい気持ち」を自分で起こしたのなら、それはダメだと言われても納得できるかもしれませんが、湧き上がってきた感情なのですからしょうがないですよね。
感情は起こすものでなく、起きるもの。「死にたい気持ち」は死ぬためでなく生きるために起きたものかもしれません。死にたい気持ちで生きてもよいのです。
というか「生きてもよい」なんて私でもだれでも指図できるものではありません。また自分自身でも自分を「~のために生きなければならない」と縛る必要はありません。
感情が思い通りにならないように、生死は思い通りになりません。
ではせっかく生かされているのなら、生きたいように生きましょう。
マンマさまは以前の質問で子育てなど「周りのため」に頑張ってきたけどそれは「自分のため」のエゴでもあったとお気づきでしたね。
仏教では自利利他円満と言いますが、あなたのためが私のため、私のためがあなたのため、というバランスが理想です。
これまで「死にたいほど苦しい」と叫びたい現実を抱えながら周りのために頑張ってこられたのでしょう。
ちょっとバランスを変えて「自分のため」に生きてみませんか。そしてそれが実は「周りのため」にもなるかもしれません。
「私がいなければどうにもならない」というのは案外いなくなってもどうにかなるものです。周りはそりゃあいてほしいからそう言いますよ。
それが喜びになっているのならよいですが、苦しみになっているのならちょっと力を抜いてみましょう。
「わしゃ知らんがな(´・ω・`)」
でもいいのですよ。
「わたしは本当はこうしたい」「こうなりたい」
という願いが生まれてくる余裕を持つために、「死にたい気持ち」ごと自分を認めましょう。
マンマさんを救えるのはマンマさんです。そしてそういう自分に気づきなさいと教えてくれるのが仏法です。
「こうでなけれなならない」という「理想のマンマさん」でなく、死にたい気持ちを抱えた「今のそのままのマンマさん」でよいのだと仏様はおっしゃります。
これまで頑張ってこられたマンマさんです。どうしても頑張ってしまおうとして中々現実は変えがたいでしょう。
少しずつ「自分のため」を意識して、それでも限界が来るときは思う存分hasunohaで「死にたい!!」と生きる叫びを発してください。
質問者からのお礼
吉武文法様
ありがとうございます。
「死にたい」と思うのは生きるため…
そうなのでしょうか。
「死にたい」私のままでいいのでしょうか。
「自利利他円満」よく覚えておきます。
あなたのためにと、してきたことは、本当は自分が嫌われないためだったり、愛されたいためだったり、結局自分のためだったなら、自分のために生きて私が幸せを感じれば、周りも幸せになれるのでしょうか。
最近、このハスノハだけでなく、病院の先生にも、読んだ本でも、何度も何度も
「自分のために生きてみなさい。」
と、言われる気がします。
きっと誰から見ても私は自分のために生きてないんですね。
どうすれば自分のために生きられるのか、よくわからなくてなかなか難しそうです。
先ずは、何かをするときに、
やってもいい。
やらなくてもいい。
どっちでもいい。
さあ、どうしたい?
と、自分に聞いてみたいと思います。
今年の目標は
「自分のために生きる❗」
に決めました。
「わしゃ知らんがな」
って言ってみようと思います。