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人生を終わらせたい。

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2度目の質問です。

今、生きているのがとても苦しいです。
昨年、3月から11月まで精神科に入院していました。生まれたばかりの子供たち(双子)を残してです。

退院して1ヶ月以上たつのに日中は昼寝をしないと体力が1日持ちません。

子供たちが泣き出しても体が言うことを聞かず、同居する母に任せきりになってしまうこともしばしばです。

そんな自分に嫌気がさし、イライラや落ち込みが激しく出ています。
最近は食欲も無くまともに食事もとっていません。
子供たちの前では、努めて明るく振る舞っていますが、ふと一人になると涙が溢れてきます。

自分が居なくなった方が子供たちは幸せなのではないかと思います。

自殺を考えたのも一度や二度ではありません。

自分で人生を終わらせるのは悪いことでしょうか?
幼い子供を残して逝くのは悪いことでしょうか?

まとまりのない文章になってしまいましたが、回答頂ければと願います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

奮起!こんな人生で終わってたまるか!

私も死にたいと思って、そこから立ち直った人間ですからお気持ちよく分かります。
私が立ち直った方法をお話しいたします。
まず、完全敗北することです。
自分の命が死にたいと思っていないことを知ることです。
あなたの意思や願いとは無関係にあなたの心臓も呼吸も動いています。
ものが見える聞こえる香る味がする感覚があるのも、命の働きで「あなた」がやっているのではない。
人間の自我はロボットの操縦士のようなもので、この身心は操縦士なしにも動くことが出来るのです。
仏教的生き方とは、そういう様子になっていくことです。
操縦士の思い通りにしようとするとエゴ100%になり、苦しみが生じます。
ホウキや筆や歯ブラシも強く力を入れるとすぐに痛んでしまいます。
自分がこの命をなんとかしようと力をいれるのではなく、この命の働きのままにまかせることです。
子供が泣くのだって自我で泣いているのではありません。
寂しいから、おっぱいが欲しいから、快適な環境でないから、痒い、空気が薄い、アツい、此方が想像してるものとは全く異なるものでしょう。
(当方1歳になりたての子供あり)お互い、自然界の存在同士になりきることで、自分が優先させたいことや優先させたい考えが無くなって、子供とも母親ともうまくいくようになるのです。
本当に自分ってダメだと思うとは、この世は自分の意志とは無関係なのだと分かるようにダメだと思うことです。
人に見せる「自分ってダメだ」ではなく、心底完全敗北するのです。
「死にたい」とか思っている自分もすてる。
死にたいのは「たい」です。
やりたい事、望んでいる自分があるのです。
それも、全てがマイルールだと気づくのです。
母との関係も、自分が被害者的と思うのを今日限りにしましょう。
母親だって未熟未完成不完全なのです。あなただって母親デビューしたばかり。
お互い素人同士ではありませんか。
あなたのお母さんだっていまだにシロートなのです。
だから、あなたのお母さんに完ぺき性を求めることをやめてみましょう。
人類、ずっと、みんなダメ親父、ダメ母ちゃんなのです。
ただし、それを無くする方法があります。
お互いが無我になる。我を無くす。我見を捨てる。
別の方法が慈悲、慈愛の心を持つ。
乗組員がロボットを乗り捨てるのではなく、
わたくしというロボットのパイロットの方を取り去るのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お子様達の為に

拝読させて頂きました。ご病気が回復なさらずに大変つらい思いをなさっていらっしゃることかと読ませて頂きました。その様なあなたの死ぬほどにつらい思いをお察し申し上げます。
あなたの生命もご両親様から頂きたくさんの方々に育てられて、大切な方と出会いご縁を深められて新たな生命がまた生まれてきたのです。
そのご縁はずーっとつながりゆくものです。
今はあなたには大変つらい山場かとは思います。ただお子様達にとっては唯一無二のお母様です。かえがたき母です。
彼らが成長して物心つくまではどうか何が何でもどうか生きてあげて頂きたいと切に願います。
お子様達の悲しむ思いは消えることはありません。
そしてあなたの生命はどなたが決めるものでもありません。与えられた生命をどうかお子様の成長の為に捧げるお気持ちで生きてください。
私はあなたが病いを回復なさり体力も回復なさいます様にと心よりお祈りさせて頂きます。

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おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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