「帰依」の捉え方
お世話になっております。
色々なお経を読んだ際に、しばしば「帰依」という言葉が出てきますが、最近「これって実はかなり深刻な一語なのでは⁉︎」と気に掛かりました。
私は神社や神棚にもお参りしますし、お寺についても各宗派お参りし「強いて言えば◯◯宗と◯◯宗が『好き』かなぁ」という様な者です。
そんな二股三股かけているものが、軽々しく諸宗派の勤行やら「南無◯◯」などを「時や場所次第」で唱え「帰依」を口にするのは、何処か節操を欠いている様な気がしています。
先ずは僧職である皆様の御見解をお聞かせ頂ければと思い質問させて頂きました。
何卒お願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
みんな仏教仲良しです
ハラショさま
帰依といえば,仏教徒は仏法僧の三宝に帰依しなさいと言われています。
仏陀の教えを,何の疑いもなく,ただ実践すればいいのだと思いますよ。
何宗がよくて何宗が悪いなんてことはありませんし。同じ仏教です。好き嫌いなんてことも関係ありません。信頼できる僧侶について,ただひたすらに実践する。それだけです。
坐禅をしたって,しなくたって,お唱えごとをしたってしなくたって,私たちの生活の中にある真理に気が付けるかどうかだと思います。好き嫌いなくなんでも実践してみてください。
自分が最期の一言に何と言って死んで行くのか
亀山純史と申します。私の帰依に対する考えは次の通りです。
仏教への帰依の第一歩は、仏法僧の三宝に対する帰依です。それに対して、各宗派レベルにおける帰依は、自分が最期の一言に何と言って死んで行くのか、あるいは何を心の支えに死んで行くのか、というところに成立するのです。ある人は「南無阿弥陀仏」というお念仏を、またある人は「南無妙法蓮華経」というお題目を心の支えに死んで行くでしょう。一度にお念仏とお題目を唱えることは不可能です。
どの宗派も仏教であり、目指すべきゴールは一つです。しかし、それに向かう道が複数あるならば、どの道を自分は選んで死んで行くのか、というところに、宗派レベルの帰依があると考えます。
自然法爾。。。。。
そんなに難しく考える事は何も必要ありませんよ。
『 帰依 』 の
『 帰 』、本来有るべきすがた、本来向かうべきところ。
『 依 』は、分け隔てなく一つになると言う事です。
例えば、着物を来た時に襦袢を着ますよね、腕と布寄り添って一つになっていますよね、
汗をかいたり、濡れたりすると、もっとビタっとなりますよね。
その状態が 『 依 』です。
想うままに、感じるままに、なさりたいままに、仏様と縁を結ぶ。
それが一番です。
こころが、一番大切です。
形を重んじると、どうしてもこころはにのつぎになりますからね。
自然法爾。。。。。
質問者からのお礼
邦元様
「仏の教えをただ実践する」「同じ仏教です」とのお言葉、有り難く頂戴致します。
常日頃「戒」など意識しながら、善人たろうと心掛けております。(ただ酒だけはついつい飲み過ぎてしまい…未熟者です)
長谷雄蓮華様
分かり易い『帰』『依』の御解説、有難う御座いました。
「形から入るタイプ」の自分として、また、一時は仏を恨みさえした自分にとって、「こころが一番大切」との一言。改めて自分の不安定な信心への励みとなりました。
亀山純史様
死に際にあって「一度にお念仏とお題目を唱えることは不可能」正に然りと感じました。
「どの宗派も仏教」で「ゴールは一つでも、どの道を自分は選んで死んで行くのか」
このお言葉は、一見厳しく聞こえましたが、今回の疑問の核心に近い所です。
自身の宿題の一つとして頂戴、向き合って参ります。