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私を、お守りくださる、方々には、

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有り難し有り難し 36

私をお守りくださる方々には、例えば、神仏のような存在には、どのように感謝、の形を表せばよろしいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

守って下さる方々をさらに世に広めるためにも神仏の外護者となる

あなたのような素晴らしい感性に目覚めるまでは、人間とは、ずっとエゴのカタマリを生き続けてしまうものなのです。私自身もかつてはそうでした。
そのエゴや自分勝手の思い上がりに気づいて、それを慎むことが世の中全体の平安に協力する事になると知れば、そういう心を広めることこそ、あなたを守って下さった方々が一番お喜びになることです、。
お寺や神社とは、分りやすく申し上げれば、そういう心の善玉菌を増やすべく活動をしている所なのです。
ところが、場所場所によっては、運営も困難です。
ここも無料で勤めておりますが実質、経済的にも大変です。
どうか、神仏をうやまう気持ちをさらにもって、神仏の心を広めるべく、お寺や神社などを外護するようにお勤めください。
ここで私が申し上げていることも、もともと私のものではありません。
すべては天地自然、神仏からの授かりものです。
授かり物は世の中に何らかの形でお返しし、神仏によって救われた人は神仏を敬って授かった知恵や力や財をすべて自分の為に使うべきではありません。
出来る範囲で構いませんから、世間に役に立てていただけるように行動や広報や布施などで貢献をなさってください。
宗教なんぞ要らん、とお寺や神社を壊すエゴ・自我のカタマリのような人が増えてきています。
お寺や神社が存続していけるように、何らかの形で援助、外護をして頂けるとありがたい

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

手を合わせること

やすさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。

やすさんを守ってくださる存在、例えば神仏などに対してどのように感謝の意を表せばよいのか分からないのですね。

やすさんは、ただ手を合わせるだけでよいと思います。
仏教では「相互供養 相互礼拝」と説きます。互いに認め合い、互いに慈しみ合うことを指しています。

慈しみの心を神仏に向け、同じようにやすさん以外の誰かに慈しみの心を向けてください。

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有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

信仰心

無心に手を合わせて下さい。
時には感謝の言葉をいいながら、生きていることへの有難さを感じ、お賽銭を入れたくなれば入れればいい。

道端にあるお地蔵さんや道祖神へも手を合わせ。

ふらっと立ち寄った無人のお寺で本尊に手を合わせ、蝉の声に耳を傾ける。

車で参拝して、変なとこへ車を止めて、住職に怒られたり。

神仏への信仰が、生活の一部として存在しております。

感謝は自然に起こるものです。

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有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

御坊様、ありがとうございます。私は日ごろ辛く、いてくださり、訪れる、霊のような、方々と、ともに暮らし,病みの、回復を、行ってます。地元の、名刹に、足が、くたびれるまで、足を運んではどうか、など、。そのよう心がけます。

ご回答、ありがとうございます。

日々修行と心がけて、今年も生きていきます。
 

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