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私の結婚、妊娠を妬ましいと言った友人の結婚式によばれました

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私が結婚する時、お祝いする気になれないと言ってきた友人が、もうすぐ結婚します。私の式の時はプロポーズから式までが短く、直接会う時間がなかったのでメールで報告することになってしまったのですが(そのことについて始めにお詫びしています)、その時に自慢された気分、祝う気になれないと散々責められました。自慢のつもりはなかったけどごめんね、と謝り友人も言い過ぎてごめんと謝ってくれて式には来てもらえましたが、その後の妊娠の時も妬ましいと言われてしまいました。最近その友人が結婚することになり、ぜひ式に来て欲しいと言われました。

全て水に流して祝福する気でいたのですが、かつて友人が嫌がっていた「幸せアピール」ともとれるSNS投稿、何人かで会おうとその子が誘ってくれていたのに何故か実際は私に声をかけてくれなかった、子どもができて妬ましい等、本当に私はこの子の友だちなんだろうかと不信感ばかりがつのってしまい、結婚式の日が憂鬱です。

私自身友人の一挙一動に囚われすぎていると分かっているし、それが嫌なので式の後は疎遠にしようと思っています。(式の時はできるだけ笑顔でお祝いしたいです)
友人を心から祝福できない私は間違っているのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

間違っていませんよ

「友人を心から祝福できない」あなたが間違っているとは私は思いません。

祝福するという気持ちは感情ですから、自分の思いとは裏腹に湧き上がってくるものです。どうにもならないでしょう。私でもそのケースなら微妙な気持ちになると思います。

で、

間違うかどうかというのは気持ちではなく「行動」でしょうね。

おっしゃる通り、式に出るならお祝いする、出ないなら出ない、でいいのでしょう。出るくせにムスっと不機嫌でいるとか、幸せ絶頂の彼女にこのタイミングで彼女の言動の現実を突きつける言葉をかけるとか、そういう行動は「間違い」でしょうね。

私も同様にすると思います。

その彼女のことを大切に思うなら、式が終えて落ち着いたころに実際に会って「あの時こう言われて悲しかった。あなたも幸せな時は皆から祝ってもらいたいと私と同じように思ったでしょ」という内容を伝えます。
別に彼女とはもういいかなと思うなら疎遠にするでしょうし、そもそも式も出るかどうかわかりません。(共通の友人等がいるならまた別ですが。)

人間誰も腹の中は見せられませんよ!感情は起きるもの!内心の自由はみなにあります。
大事なのはふるまい・行動です。自分を責めないでくださいね。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

「わたくし」という小さな枠をすててこそ、儀式。

これは愛情をこめて自分に言ってください。
愛をこめて今から「ちっちゃい」「くだらない」という言葉を用いますが、小さな自分をぶち壊す為です。
「アタシ達って、ホンットちっちゃいよね(笑)」
「あたしたちって、ホンットにくだらないことでネチネチ言いあって来たよね(笑)」
「でも、それって本当の友人同士だから、他の人には見せたくない赤裸々な人間の感情まで表に出し合えたんじゃないかと思う。」
こういう事をその友人と話し合って、その方が赦しあえる関係であれば、今後もいい友達になれるでしょう。
友人だから、誰かの所に行ってほしくなくて、そういうヤキモチも込めた心底祝福できない気持ちもあったのでしょう。
あなたは、あなたとして親友だから何でも受け止めてくれると思って何でも報告してたのに、予想外の返答があって、困惑した。あなたの願うところの理想的な友人であってほしかったのに、ちょっとグラつくようなことがあった。
そういうことからも、心底純粋に祝福できなくなってしまった自分がいる。
ですが、本当は結婚式というものはホントは宗教行事でもあるのです。
日本人はテキトーなアルバイトイケメン牧師の「誓いますか?」に誓いますをして、キリスト教徒でもないのに純白ウェディングで、バージンロードを歩みますが、本来は神神の御前で男女関係のいざこざも、友人関係も全部チャラにしてくれるというのが儀式というものです。
儀式とは「わたくし」「私情」「個人的感情」を持ち込んではいけないものだからです。
よって、その彼女の❝神聖なる❞結婚式によって、あなた達の❝イザコザ❞すら浄化してもらえるのです。その浄化、赦しに身を任せるのが結婚式の一つの救いのチカラです。
過去のいざこざは水に流して、お互い純白マインドで関係を構築し合ってください。
宗教性に勝るエゴはどうしようもありません。
自分の中の私的感情の暴動をこそ、おさめるのが宗教行事、宗教心です。
ここも仏という大いなる「赦し」の力が働いているのです。
あなたが、こういう回答を通して、神仏の赦し、赦されに目覚めて、いつまでも執着をしている場合ではないという事に目覚めることが、あなたがあなたの宗教心、赦しの心、博愛、人間愛、人間性に目覚めていくという事です。その友人の式の前に、あなたは彼女よりも大きな心になって、あなたの心のひっかかりを流し去ってあげてください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

優しいお言葉、ありがとうございます。心に沁みるものばかりでした。
SNSをのぞかないようにしたり、ドレスを買ってちょっとワクワクしてみたり、出席する友だちと連絡をとってみたりすることで、随分気持ちが落ち着き、式の日祝福できるかもと思えるようになりました。
されたことを忘れられるか、今後お付き合いをどうするかは分かりませんが、当日は彼女の幸せそうな顔をたくさん見て、自分も幸せを分けてもらいたいと思います。本当にありがとうございました。

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