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自分が嫌です

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有り難し有り難し 10

私は今学校を休学しています。元々学校が苦手で、学校に行くと具合が悪くなったりしていました。もうこのまま辞めたいと思っています。
しかし、今現在ほとんど働いておらず、ごくたまに派遣のアルバイトはしていますが両親に養ってもらっています。
アルバイトでもいいから働かなくてはと思うのですが働くのが怖く、うだうだと考えてしまいます。
お付き合いしている人がもうすぐ就職して遠くに行ってしまうので、ついていきたい気持ちはありますが、今のままの私では邪魔になるだけですし、ある程度貯金をしてからではないとついて行くことすら難しいと思っています。

最近自分が恥ずかしくて情けないです。甘えてるだけなのもわかっています。
でもどうしたらいいかわかりません。
まとまりのない文章ですが、何かお言葉頂けると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一人を生まれ一人を生き一人を死んでいく 

この自己を扱うようにすると良いでしょう。
外の事ばかりを問題にしていることに気づくのです。
学校、バイト、就職、彼氏、自分の悩み…
みんな外の事にしているのがお分かりになりましょうか。
外にものや人、仕事があるのではないのです。
この身の上に行われる事しかないのです。
学校に行けばこの身の上に学校での生活が行われる。
バイトに行けば誰から何を頼まれようとも、仕事を実際に行なうのはこの身に他なりません。
仕事を求め、仕事を見つけ、仕事をするのも、他でもないこの自分自身。
彼氏とのやり取りをする場所はどこにあるか。みな、この自身の内で生じているのです。
自分の悩みを問題にするのも他でもなく、あなた自身の問題なのです。
人生は一生、この自分自身の活動しかありません。
外に何かがある要でも、自分の身の上、五感、六感上の現われなのであると知りましょう。
私は今これを入力しながらTVの音声を聴いていますが、TVとて❝外の事❞ではありません。
「私の事」なのです。「この身の上に生じている事」なのです。
TVが放映されて、それが映像が視えるに所まで映り、音声が届くところにまで届く。隣の家まで音量が上がれば隣の家の人の耳にまで聴こえる。
音が小さければTVの前にいても❝聴こえる❞ことが生じない。
この画面もディスプレイを他に向けてください。
貴女のみの上に映像や文字が生じないでしょう。
外の事ではなく、すべて我が身に生じること、生じていることしか経験ができないのです。
つまりは「この身をおさめ、こころをおさめる事」があなたの人生をより良く生き、自分を好きになれる最上の方法です。
あなたがロボットだとします。
ロボットの乗組員が自分であるとします。
この人間というロボットは実は乗組員無しでも働いてくれるのです。
あなたを主人公とさせないでください。
この与えられた命という乗り物を上手に活用するのです。
あなたが主人公であろうとし続けるからこの身心という乗り物を毛嫌いするようになるのです。
もっともっとオフィシャルにパブリックに私的感情を交えずして高い高い所からこの人間という乗り物を見つめてみましょう。
呼吸は誰がやってくれているのでしょうか。
髪の毛は誰が伸ばしてくれているのでしょう。
思いは何処から誰が生じているのでしょう。
本当の主人公を感じられれば好き嫌いすら無くなりましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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