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母を許せない

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有り難し有り難し 33

幼少期より母に不信感を抱いています。決定的なものにしたのは、友達との文通の内容を見せろと命令し文法のチェックをされて書く手紙の内容を指示されたことです。まだ小学3年生だった私は恐くて拒むことができず、友達に面白くないから辞めようと言われてやっと母に止めてくれと訴えたのですが、母は「あんたが勝手に手紙を見せてきたんや」と言うのです。ショックでした。それからは母に不信感があり相談一つまともにしたことがありません。
結婚してからはほどよく距離ができ精神的負担もなかったのですが、月に1~2回電話がかかるようになりその内容は兄のお嫁さんの愚痴。それだけでもイライラするのですが、
兄に「(両親のことを)甘やかしすぎた」と言われたらしく、それがショックだったらしいのです。
「甘やかしすぎた」私は以前母にそう言われたことがあります。
兄は厳しく勉強を仕込んだから優秀に育ったが私は甘やかしすぎたと。
怒りを通り越して悲しくなりました。
私が甘えることは許さないのに自分が私に甘えることは当然の権利だと思っているようです。
出来れば縁を切ってしまいたい。
娘にも触らせたくありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自我に対しては自我で対抗しない

たとえどんなにキテる母ちゃんであっても、あなたはその母ちゃんのエゴに対してエゴで立ち向かわないことです。
出家という言葉が示しますように、人間の我欲、マイルール、マイワールドを強いてくる相手に対しては相手と同じ我欲で立ち向かっても同じレベルになるだけです。
仏教では、自分自分した「わたくし心」のないという意味での無心を説きます。
無心とは空っぽになることではなく、あなたの立場で言えば未完成、未成熟、人間的に我の強い母親を不完全ながらに肯定してあげることなのです。
こちらがマイルールを立てないこと。
この世の争いをみてください。
みんな自我と自我の戦いです。
生老病死の生苦とは生まれを選べない苦です。
親を選べない。
どこに家に生まれてくるかも選べない。
最初から、自分の願いとは無関係なる世界です。
それがこの世の大前提。
イコール、この世の道理をわきまえ、この世の法則の川の流れを熟知すればその法則の川ノン流れに身を任せる、適応させる=自我を手放すことで、あなたは母親の娘ではなく、この世の娘になれるのです。
この世の娘とは天地の娘、仏の娘、非エゴガールです。
苦とは、自分の願望や願いとはまるで無縁なさま。
つまりあなたの母ちゃんはスサマジー母ちゃんであってもそれはそれであなたとは無縁無関係、別存在なのです。
だから、この世の法則性に身をゆだねればスサマジー母ちゃんであろうが、あなたが取り込まなくなる。取り込まれなくなる。
あなたの生命体はありがたいことに母親とはもう分離してあなたの生命を生きています。
あなたの意思からも分離して独自にあなたの生命活動をしているのです(=無我)。
よって今日の命もあなたのあなただけの独立した生命。
あなたのお母さんとは無縁な生命活動をしているのです。
あなたのお子さんも同じです。
あなたからお母さんを手放してみてください。(程よい距離感という意味で)
あなたからお子さんもルールを強いずに手放して尊重してあげてください。
今日あなたがそれをすることであなたは無我の力によってエゴに打ち負かされることなく、“自然に”許せる、いや、赦せるようになるのです。

目は見ようとするから凝視して神経が疲れる。
みるのではなく、ただ映るままに。
心もまた、同じく、何かをあなたが“しよう”とするのではなく、なされるままに過ごされるとよいでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

義母と「合わない」のが普通なのですが・・・。

実母を許せないのですか?。義母との仲はどうなのでしょう・・・?。
義母とは「うまくいっている」という前提でコメントします。
ご主人のご家族と同居して、仲良くやっている、とすれば「奇跡(⁉)」です。実母なんか無視すればいいのです。今の生活を大事にして下さい。実母はお兄さんにお任せしましょう。
実母はあなたに電話してきて〈兄のお嫁さんの愚痴〉を言うようですね。あなたが言う通り〈自分が私に甘えることは当然の権利だ〉と思っているのでしょう。この考えは恐らくズット変わらないでしょう。ならば、むしろ実母を「反面教師」としてお義母さんと仲良くやって下さい。キット増々❝しあわせ❞になれるのではないでしょうか。
一般に母親は実の娘の方が「気兼ねがない」。だから甘えてくるのです。お実母さんが小さい時からあなたに干渉したのは、特別なことではありません。あなたも子育てを通して分かってくるでしょう。
娘さんがもう少し大きくなった時、あなたが経験したことを、実母のようにはしないための「反面教師」として利用しよう・・・位に考えたらどうでしょう(笑)。
◆過去はやり直すことはできない。しかし、見直すことはできます。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

回答ありがとうございました🙇おかげで、少し気が楽になりました。
母のことについてはかなり前に諦めていたつもりではありましたが、母が私に理想を押し付けたように私も勝手に期待をしてしまったようです。
有難いことに義理の母とはうまくいってますので、自分の生活を大事にしていこうと思います。

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