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嫌なことばっかり起きます

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先週の金曜日は体調の悪い中行った飲み会で目の前の人がいきなりお店の人と喧嘩をし出して、席を変わろうと思って横の人に「どいて」と言ったのに、酔っ払っておしゃべりに夢中になっている人に「大丈夫。大丈夫」と無責任なことを言われて、どいてくれなくて、目の前で起こっている喧嘩の一部始終を見る羽目になり。
今日は今日で、毎週やっているイベントに少し遅れて行ったら(しかもそれは事前にわかっていて伝えてあったのに)嫌味をタラタラ言われて。
しかも、少し感じるところがあるので「怖い話は嫌だ」とい言っているのに、そういう種類の話を目の前でされたり。

嫌なことばっかり起きるのですが。

仕事も嫌なことが多くて。

なんなんでしょうねぇ〜〜

嫌なことから脱する方法はありませんか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌なことが無くなる方法

こんにちは。
嫌なことを無くす方法、あります。
嫌なことを無くしたければ「禅」を学ぶと良いでしょう。
物事の根本を学べるからです。
物事の根本とは人間の見解以前の様相です。
物事というものは、あなたにとってのヨイワルイが感じられるとしても、それは第三者や当事者ではない人にとってはどうでもよいことでしょう。
世間の痛ましい事件に同情しようとしたり、気持ちを注ぐことが無ければ、元々「ただそれだけ」なのです。
「わたくし」という意識が、物事に善悪の基準や条件づけをする。
人間中心、自分中心の物事を眺めるから善し悪しや苦楽が生ずるのです。
盛りを追い出されたカラスがド実をつつけばカラスが悪者になりますが、カラスの親子にとっては人間こそ勝手に住まいを奪った悪党。
平和の象徴のハトでさえ、多く集まればフン害で憤慨です。
つまり、私ども人間は「私にとって」という眼鏡をかけて物事をみているのです。
私も昔は嫌なことばかりが起こってやれやれだなぁと人生をやみくもに歩んでいましたが、禅を学んだ時から嫌なことがただのそれになってさほど問題にならなくなりました。
「私にとって」が無くなるからなのでしょう。
そういう視点があるものです。
それが禅の功徳でしょう。
この自分自身を「わたしだ」と強く思い込んで、全部自分が自分がやっているという気持ちが強くなっているのが人間の苦しみの原因です。
「わたし」「わたしの」「わたしが」というワタクシ濃度を下げてみましょう。
物事や他人様がただのそれ、ただのその人になります。
自分にとってのなんちゃらという存在ではなくなるのです。
怖い話だって、意味を深く考えたり深読みするから恐怖が増すのでしょう。
自分の想念に騙されなくなれば怖い話も子供だましにしか感じなくなります。
全て自分の一念が物事をゆがめてしまっているのです。
禅は一念の生ずる前のまっさらのありのままの当たり前に目を向ける事を説きます。
機会がれば坐禅を学んでみてください。

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おきもち

無意識に「いやな事」を探してしまっていませんか?

例えば、3月21日が誕生日だとします。すると、自然と「21」という数字に親しみを持つようになりますね。
すると、「21」なんてそこらじゅうに溢れている数字なのに、何気なく時計を見た時に21分だったり、待合い整理券が21番だったり、なんてことない偶然が「すごい!私の好きな数字なのに!何かの暗示かしら!」と運命的に感じるものです。
無意識の意識とでもいいましょうか。普段から何気なく意識しているものは、自分でも気付かぬうちにそれを求めてしまっているものです。

「いやな事ばかり起こる」という人は、往々にしてその「無意識の意識」を抱いている事が多いように感じます。
「体調が悪い」という自身の問題が前提としてあり、更に「目の前の人がケンカをした」といういやな事が起こると、「隣のひとが道を空けてくれない」という普段ならそこまで気にならない事までいやな事として意識してしまう。
そういったことがあると、無意識に「いやな事」を探してしまうのです。ちょっとした、何気ない不快感すらも「いやなこと!」として認識し、イライラしてしまいます。エゴサーチのようなものですね。
実際、客観的に見ると全然たいしたこと無いような出来事が別々に起こっても、あなたが「いやな事が続く!!!」と意識しすぎているせいで、それが連鎖しているように感じ、また必要以上にストレスを感じてしまっているのではないでしょうか。
シンプルに言えば、ものごとを大げさに捉えてしまう被害妄想です。

様々な事に言えますが、何かを改善したいときは、周りを変えようとするのではなく自分自身のとらえ方を変えるのが一番です。
「いやな事ばかりおきる」という意識に引っ張られずに、心を整えて、「いいこと」も探してみてはいかがでしょうか。

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おきもち

自分から楽しむ気持ちで

ご質問の内容、私だったらそもそも「嫌なこと」と感じないエピソードばかりです。
居酒屋でケンカを見た、所詮は他人のケンカです。「おもしろかった」と思えないでしょうか?
遅刻して嫌味を言われた。
嫌味を言う人は嫌な気持ちがあるから嫌味を言っている。つまり、苦しんでいるのは相手の方です。
心の中で「ざまあみろ」とあっかんべーをして笑っておけば楽しいでしょう。
怖い話も、嫌だ嫌だとビクビクするのではなく、自分から積極的に楽しんでやろうという気持ちで聞いてください。

総じて言えることは、あなたは、襲いかかってくるエピソードに対して、気持ちの面で、最初から負けるつもりで戦っている、しかも負けたくないと思っているのでは?
襲いかかってくるエピソードはたいしたことないものばかりだ、死ぬほどのことではない、負けても楽しいゲームだ、という心の余裕を持ってください。
どんな嫌なことがあっても、それを楽しんでやろうという、襲いかかってくるエピソードを上回る大きな気持ちというか、高揚感を持つようにしてはどうでしょうか。

もっと他人をバカにして、笑いのタネにして生活してはどうでしょうか?
もっと自己チューになって良いのではないでしょうか?

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
確かにそうですね。
普段は感じないことも感じやすくなってしまっているのかもしれません。
いい事を積極的に探してみます。

自分から楽しめるでしょうか?
さらには職を失いそうなんです。どうやって楽しんだらいいのでしょうか?

「心構え・生きる智慧」問答一覧

夫の過去の浮気が忘れられない

浮気、不倫など自分とは無縁だと思っていたら、夫が不倫していました。 夜中に自分の部屋で女と電話している所を同居の娘に聞かれてバレました。 娘も私に言い出さなくて、2ヶ月は胸に秘めていたそうです。 女と遊び始めてからは、夫は 仕事にも行かず、女のシフトに合わせての外出、外泊、3日空けずに女と昼間からホテル。私は離婚するつもりで、探偵を雇い 証拠を揃えて、弁護士も雇い、女に慰謝料請求しました。怒り狂った夫は、私と娘に恫喝まがいの暴言を吐きましたが、結局は、慰謝料請求を取り下げて欲しいと言う事。もちろん、却下するものの、女は弁護士から送られた内容証明を無視。 弁護士からもあんな酷い態度の女性は初めてで、無視を続けてる以上、どうしようもない。訴えたところで、離婚していないのなら、判決で決まる慰謝料なんて少額。 訴えれば、私が損をすると畳み込まれました。 夫とは、よくよく話し合い、許してはいないけど、謝罪は受け入れる事にし、仕事にも復帰した夫、憑き物が取れたように、顔つきも元に戻り、平穏な毎日を送っていますが、私はあの女が許せないままになっています。夫が1番悪いことはわかっているつもりですが、無視をしつづけてる女が許せない気持ちが続いてしまってます。 自宅のパソコン、夫のLINEが同機していたので、2人のLINEやりとりはずっと見ていました。見てはいけなかったのでしょうが、探偵に情報を送るために確認していました。そのLINEには女が、離婚をそそのかしていたり、泊まりをねだっていたり、私の悪口を書いていたり、別れると言いながら、夫を呼び出しホテルで仲直りを繰り返している事がわかりました。 夫はもう一年前の事、もう終わった事と自分の中では終わらせてしまってます。 夫とは穏やかに暮らしているものの、私には落とし所が見つけられないままになっています。こんな私は見苦しいですよね? 再構築を選択したとは言え、あの頃の夫の顔つきや、暴言などがフラッシュバックしてしまいます。 こんな私にお言葉を頂ければありがたいです。残りの人生を穏やかに暮らしたいのです…

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普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

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SNSでの誹謗中傷が長い間続いています。

あるSNSで複数人、グループのような形で仲良く交流をしてた人々がいました。(以下、ネッ友たちと記載させて頂きます。) そのネッ友たちとは約4年程交流していたのですが、ある日、ちょっとした事で喧嘩をしてしまい、いわゆる喧嘩別れをしました。 喧嘩の内容は、意識のすれ違いというか、 正直なところ、何故そこまで執着して責められないといけないのだろう…といった内容です。どちらに非があるのか、聞かれれば微妙な内容です。 喧嘩をした後は速攻アカウントを削除しネッ友たちから離れました。 それから2年後のある日、たまたまネッ友たちの内の1人のアカウントを発見してしまい、興味本位で覗いてしまいました。 悲しい事に、まだ私に関する悪口が沢山書かれていました。 過去の私の投稿や発言を転載し、揶揄する内容のものもありました。 会話のやりとりもあったため、察するに仲間内で盛り上がり、当時のメンバー全員で書いているのだと思います。 とても怖く、ショックであったため、もうそのアカウントは見ておりません。 お恥ずかしい話なのですが、当時、そのネッ友たちに自身の本名などの個人情報を伝えてしまったため、いつか個人情報をインターネットにバラまかれたりしないか?と心配で仕方ありません。 住所なども特定されてしまう、または既に特定されているのではないか?と余計な妄想までしてしまい悩んでいます。 自分の失態が招いた出来事であるのは勿論承知なのですが、デジタルタトゥーを残されることが特に心配なのです。 正直なところ、2年も誹謗中傷が続いているものですから、何をされていてもおかしくないと考えております。 現在進行形で悪口が書かれる事と、個人情報がインターネットにバラ撒かれないか、という不安で大変辛いです。 毎日、普通に生活していても、ふとした瞬間に書き込まれた悪口を思い出しては辛い気持ちになり、「今も悪口を言われているのだろう。」といった悪い思考に取り憑かれています。 どうしても病的に思い出してしまいます。 私は一生、この不安や憂鬱な気持ちと付き合っていく他ないのでしょうか。 どうすればSNSでの誹謗中傷を気にせずに居られるでしょうか? 何せ粘着されている期間が期間であるため、精神的に大変参っております。 どうすれば気にならなくなるか、または立ち直り方など、心の持ちようをお教えください。

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愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
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楽に生きたい

私は物事をマイナスに考える癖があるようです。 いつも怒られるのではないか、誰かから攻撃されるのではないか、嫌われているのではないかとビクビクしながら生きている事に気づきました。 「ちゃんとしなくちゃ」とか「人に迷惑かけないように」とかいつも気が張っていて何処にいても誰といても休まりません。 常に自分で自分を追い詰めているようです。 かと言って他人にそういう自分の状態を出しているわけではなく、周りの人は私がそんな事考えてるなんて思ってもいないと思います。 そのギャップにも苦しいです。 私は繊細で、大体の人が気にもしないような事を気にしているようです。 人の表情を読み取ってしまったりします。(今この人言ってる事と思ってる事違うな。など) 私のような人間がいる一方で、適当に生きている人(例えば人の話を聞かない人とか、遅刻する人、挨拶しない人、無愛想な人など色々な方がいますが)は凄く自由に見えて、ルールを守らなくても難なく生きてる人もいるんだと疑問に思ってしまいます。 嫌われていると思っていた人に話をしてみたら、そんな事ひとつも思ってないよ?大丈夫だよ?と言われたのですが、表情を読めば私に対して良く思っていないような感じに見えるので、「本心では嫌いだけど大人の対応をしてくれているんだ」と疑心暗鬼になってしまって辛いです。 他人の機嫌を損ねるのが怖いですし、自分を否定されるのが怖いです。 死を考える事は無くなりましたが、1日1日を終えるのが精一杯です。 もっと自由に生きられたらどんなに楽しい人生になるんだろう…。 自分なりに改善策を調べ、何度も何度も実行していますが、なかなか考え方が変わりません。 とにかく生きづらいです。 どうすれば楽に生きられるでしょうか?

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必要以上の罪悪感を抱かなくする為には…?

最近、ちょっとしたことに罪悪感を感じてしまいます。勿論、謝るべきだなと思った事は直ぐ謝るのですが、普通の人なら気にしないようなことに対しても、謝った方がいいのかな?って何に対してもそう思ってしまうときがあります。 例えるなら、外に出かけてて、壁にカバン、もしくは手が軽くぶつかっただけでも、傷付けてしまっていてはどうしようと思って確認しても傷も何一つ無くても、明らかに自分がぶつけたところとは違う所に傷を見付けた時も、実は私がしたんじゃないか?ってモヤモヤしてしまったり、他にも普通の人なら謝らないような小さな事に対しても罪悪感を凄く感じてしまい常に謝ろうか考えてしまいます。 ですが、最近は、その何に対しても罪悪感を感じて謝ろうとするのは、相手を思って謝ろうとしてるのではなく、自分のこの何に対しても感じる罪悪感を消そうとして気持ちを押し付けようとしてるだけだと思うようになりました。 本当に相手を思うのなら、時と状況を見極めて、何の為に謝るのかを考え、相手のためになることをするべきだと思うのですが、普通なら気にしない小さな事でも、申し訳ないことをしたと思い、凄く罪悪感が出てきてしまいます。 特に、大きな失敗した時やメンタルが落ち込んでる時にこういう風になりやすいです。 どうしたら、必要以上の罪悪感を感じなく、小さな事に対して動じなくいられるような精神力を付け穏やかにいられるようになりますか?

有り難し有り難し 1
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ