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感情の移り変わり

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有り難し有り難し 9

もうすぐ自死によって亡くなった彼の四十九日です。

職場の彼のデスクは片付けられ少し寂しさもありますがその景色に慣れつつもあります。ですが、現場での仕事が多いので現場に向かう道のり等にも思い出がありまだまだ浮いたり沈んだりの毎日ではあります。

悲しみの質量が減る事は無いのですが、私の事が好き過ぎて抑えるのが辛いと言って自死を選んだ彼に行き場のない怒りの様な感情が湧いてくる事があって自分の狭量さに辟易としてしまいます。
好きだと言いながら、なぜ私が一番苦しむ方法を選択したのか、そして彼自身も身内を自死で亡くしているのに残された者の気持ちは分からないのかと、ぶつけ様のない怒りに似た感情で押し潰されてしまいそうです。

最期の日のメールは安定剤の乱用で支離滅裂な文章や自死するまでの実況の様な内容ばかりで、消してしまいたいと思うのですが、これを消したらもう何も残らないのかと思うと、消す事も出来ません。「(自殺を)止める気がないなら気にするな」や「死ぬ場所が見つかったので準備します」とか「死んで楽にしてあげます」など何度読んでも止める事も出来ずにただ恐怖の感情しか湧かなかった自分に後悔しています。
もうどうやっても戻って来ないのは分かっています。それなのにそんな相手に怒りの感情を持ってしまう自分の身勝手さにとても嫌悪感があります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いや、怒りの感情が出てきて当然ですよ。その怒りを菩提心に。

私はあなたに深く同情致します。
関係の深い存在であったあなたという方がありながら自分だけ勝手に死を選択するなどという事は身勝手にもほどがあると思います。
あなたとしても何もできない。
苦しみがずっと続いておられると思います。
もちろん彼も生きていて本当にお苦しかったのであろうと思います。
ですが、自死というものは残された方々もその後も闇に似た心境、こころにつめ跡が残るものです。
今日で決別を致しましょう。
お互いがより良くなる道を選択するのです。
そのメールを残していてもあなたは心が暗くなるだけではないでしょうか。
それよりも、あなたは彼の菩提を弔うべく、あなたが仏道に精進する志を奮い起こすことです。
昭和の名僧、飯田トウイン禅師は、菩提心を強く起こすべきことを説いておられます。
「私が彼に代わって世界中の人をできるかぎり救う」という菩提心を奮い起こして、今日を限りにそれを消すことです。
あなたは生きています。
あなたがより良く生きることがあなたの中での仏教が始まることです。
人は誰でも生まれながらには宗教心はありません。
なぜ私どものような僧侶がいるのかといえば、人間が人間のできる限りの最高の生き方を追求し、それをお伝えするためです。
人間は宗教心が生じなければどこまでいっても結局自分を中心とした生き方しかできないものです。
その結果、沢山の苦しみが生まれます。
菩提心を心の底から奮い起こすことです。
自分が自分のチカラでもってできることを尽くす。
人間のエゴ、我見を捨て去って、世の中の良きことの為に貢献するのです。
自分自分、おのれおのれしたものによって人は苦しむからです。
あなたの菩提心でもって彼を成仏させ、彼に対する負の感情をも成仏させることです。
仏道をならうという事は、この自己をならい明らかにすることです。
自己の心性を坐禅によってみきわめ、自分の心の本来の姿を徹見することによってあなたは必ず救われましょう。
怒りの心も、悲しみも、負の感情も、自分を嫌う気持ちはいつどこで誰の中でやっているか。
その「一心」である。
その「一心」に悪しき一念が生ずれば、一切が悪しきものとして映るものです。
自己に向き合い、一念を握ることなく、自己の心が無我なることをはっきり明らめるまで坐禅にいそしんで頂ければ自ずから彼もあなたも成仏する事でしょう。発菩提心を。合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様
お忙しい中、まとまりのない質問にお答え頂きありがとうございます。
覚元様にお教え頂いた道は正直まだまだ自分には難しい部分がありますが、自身の為、更にはそれが彼の為に唯一私が出来るであろう事なので少しずつ理解していきたいです。
怒りの様な感情にご同情頂けただけでも少し気持ちが楽になりました。
ありがとうございました

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