起こることが起きているだけと、因果応報の違い。
起こることがただ起きているだけ
というのと
因果応報との違いが
なんとなくわかりますが、
よくわかりません。
ご教授いただきたいです。
変な質問ばかりでごめんなさい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
同じことではないでしょうか。
因果応報とは原因があって結果があるということですよね。
ただ起きることも、それが起きる原因があるのです。
そして、起きたことが、また次に起こることの原因になるのです。
その繰り返しです。
遥か過去から、遥か未来まで、この因果が永遠に続いていくのですね。
ゆりかごさま
因果応報というのは、原因に応じた結果がある
ということです。
ピーマンの種をまいたら、ピーマンができて
なすはならないという感じです。
「起こることがただ起きているだけ 」の
なかの「起こること」は、何らかの原因があって
起きたことで変わりはないのですが、
たぶん、「起こることがただ起きているだけ 」という表現で
言いたいことは、使われている状況によって違ってくるかも
しれませんが、
起きたこと自体に意味は無いということだと思います。
たとえば、歩いていて鳥の糞が頭に降ってきたとき、
ただ事実は降ってきたということですが、
そこに不運とか不幸とが何かの罰というような
意味は初めからついてないということだと思います。
この事実、結果としての事実の原因は誰にもわかりません。
どうして糞が当たったかなんて、
わかりようがないとおもいませんか?
それを「自分の過去にした悪いこと」と結び付ける
解釈は誤りです。
たとえば目の前に消しゴムがあったとします。
この消しゴムは、それ自体、本来は名前はありません。
物そのものに、名前はありません。
人が勝手につけたものです。
またいいものとか悪いものという評価も
人がつけたもので、物そのものにはついていません。
物も出来事もそれ自体に意味はありません。
みんな人がつけています。
「起こることがただ起きているだけ 」は、
日常の様々な出来事は、意味づけ以前に
起きているもの、そうゆう意味かと思います。