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念仏とは..?阿弥陀様とは..?

私の家の宗派は浄土宗で、私はよく、祈る時や心が苦しい時等に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えます。しかし、最近不安に思う事が有ります。
それは、念仏の唱え方と、阿弥陀様についてです。
私は、念仏を唱える際には、御仏を念じ、御仏の名を口にする事を心掛けています。ですが、それが本当に正しい唱え方(観想念仏、称名念仏)と言えるのか、御仏に失礼ではないか、と思ってしまうのです。
そしてもう一つ、阿弥陀様は、御釈迦様とは、どの様な関係が有るのでしょうか。私は、以前にネットに“阿弥陀様は御釈迦様の先生である”と書かれてあるのを見た事が有るのですが、果たしてそれが事実なのか、それを鵜呑みにするのを躊躇してしまいます。もしかしたら、私は阿弥陀様の事を勘違いしているのではないか。阿弥陀様の事も知らずに、御仏を信仰し、念仏を唱えてしまっているのではないかと思うと、不安で仕方無いので御座います。
これを御覧になって下さっているお坊様、正しい念仏の唱え方と、阿弥陀様の事について教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。

仏教
有り難し 21
回答 3
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

あなたの心しだい

念仏の唱え方はどんな方法でも構わないのですよ。寝ていても座っていても立っていても、いつでも、どこでも、誰でも、一回でも一万回でも構いません。なぜなら、私達はいつ死ぬか分からないからです。ですから、いつ死んでもいいように、いつでも唱えられるときに自由に唱えていいのです。
自分の為に唱えてもいいし、亡き人の為に唱えてもいいし、他の人や生きとし生けるものの為に唱えてもいいのです。

頭の中には様々な雑念が浮かびます。それはそのままにしておきましょう。雑念を追いかけないように。雑念は浮かんでは消えていきます。それを気にしないように。もちろん阿弥陀様を想像することは良いことです。ですが、想像できなくても構わないのです。
大切なことは極楽往生を願うこと。ですが、ずっと念仏中に願い続けることはできませんから、時々思い出したように願うくらいでいいですよ。

阿弥陀様とお釈迦様の関係は、宗派によって様々です。
私個人としては、両者共あらゆる事を知る仏様ですから、仏様同士通じている、お互いのことをよく知っている、対等な関係、その様に解釈しています。
浄土宗的には、阿弥陀様の救いを人々に伝えることが、お釈迦様の本当の目的である、といわれます。私個人としてはこれは少し片寄りすぎな解釈かなと思っています。(ここだけの話)
あるいは、人々の苦しみを取り除く為の方便として、お釈迦様が阿弥陀様の事を説いたのであって、お釈迦様の生み出した仏様という解釈もあります。
あるいは、阿弥陀経などのお経が書かれたのはお釈迦様が入滅して随分後のことです。当時の大乗仏教派の若手僧侶達が、もし今お釈迦様が居たなら、苦しむ人々の為にきっとこう説くに違いない、と何度も協議を繰りかえし確信して書いたものともいわれています。お釈迦様が直接書いたお経ではないのです。そういう意味でいえば、阿弥陀様はお釈迦様の様に実在したのではなく、当時の大乗仏教の人々の理想の仏様として生み出されたともいえます。
あるいは、空想などでは無く、実在する阿弥陀様のお力によって、人を通してその救いがある事を人々にそして後世に伝えた、とも解釈できるでしょう。
他にも様々な解釈があります。

様々な解釈がある中、あなた自身がこれから知識と経験を幅広く積み、あなたなりの答えを見つけ出して欲しいと思います。
南無阿弥陀仏

本地垂跡

阿弥陀如来と釈迦如来の関係をどう解釈するかは様々ですね。
私自身は、明治大正時代に超宗派の念仏を唱導した山崎弁栄上人の教学が一番腑に落ちています。

それは、「本地垂跡」というものです。すなわち、宇宙大霊である阿弥陀如来が人間としてお生まれになったのが釈尊である、というものです。これはキリスト教で、神が受肉して人間として生まれたのがイエスである、とするのと同じですね。

山崎弁栄上人は、その他にも大日如来と阿弥陀如来は同体異名(名前は違うけど同一の大霊)であるとも説かれています。(奇しくもこれは、新義真言宗の覚鑁(かくばん)上人の思想と同じです)

唱え方で不安があれば、当方一般の人向けに念仏道場をやっていますので、興味があればどうぞ。不安なんか、吹っ飛びますよ。
http://taosangha.com/

回答僧

けんじゅ

お念仏に出遇えた御縁を共に喜ばせていただきます

蓮阿弥様
こんにちは。拝見させていただきました。

お念仏申される生活をしておられるのですね。とても尊いことだと思います。お念仏は「唱える」ではなく「称える」と書きます。仏様のお名前をお呼びするからです。修行の一部としてのお念仏ならば「唱える」ですが、極端な言い方をしますと法然様のお念仏は仏様へ「御供えする」お念仏かと思います。

阿弥陀様に失礼ではないのかとのご質問。逆に言いますと、失礼な形でしかできない者であっても阿弥陀様の方がその者の心を見通して「信じて見守って」くださる仏様ですので、失礼ではないかなと思われたのでしたら、そんな私でも見捨てず信じていてくださっているのだなぁとお思いになられて感謝のお念仏を申されるのがよろしいかと思います。もっと言えば法然様は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と仰せです。自らを内省し、愚かさを知る人こそ、仏様の智慧に出遇うことであり、阿弥陀様の慈悲の深さに気づく御縁をいただけます。

阿弥陀様とお釈迦様の事についてですが、仏様の世界観の中では、日本にたくさんの病院があるように、たくさんの仏様(お医者様)の世界(病院)があり、それぞれの仏様が迷えるいきとし生ける者、生きていない者を救いとるために働いておられます。阿弥陀病院とお釈迦病院と考えてみてはいかがでしょう。浄土宗の主治医は阿弥陀様です。主治医は阿弥陀様ですが、他の病院の先生を邪見に扱うことはしませんよね。我々の苦しみ、迷いの深さに応じて手立てを考えてくださっているが仏様だと思っていただけたらと思います。

共にお念仏を喜ばせていただきましょう。合掌


質問者からの有り難し - お礼

ありがとう御座います。
念仏や御仏への見方は、見る者の心次第なのですね。勉強になりました。
心から感謝致します。
合掌

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