自分が拝む仏様
十方諸国土に三世諸仏様、
数多の菩薩様や天部の神様がいらっしゃいますが、
特定のお寺に檀家に入っている意識も薄く、
仏像様も身近にない
在家の者は
自分が集中して拝む仏様というのは、
どうやって選ぶのですか。
別に選ばなくても良いのですか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏様は常に現前しておりますが
曹洞宗の吉田俊英と申します。
我々住職がお仏壇などの仏像の開眼供養を行う際に、下記のような回向文(開眼供養することの意義を説明し、仏様のと功徳を説明する)を唱えます。
「仏身は法界に充満し、普く一切群生の前に現ず。縁に従い感に赴いて遍からずということなし。」
意訳しますと
仏様というのは、この世界に満ち満ちており、すべての人たちの目の前に現れています。(我々が先祖のことを思い出したり悩み事で心がくじけそうになったりして)何かに神仏に頼ろうとして手を合わせようとする時があります。また(見えざる大きな力によって守られ支えられていることに思わず「お陰様」と言うように)感謝や供養の心を抱く時があります。このように仏様はいつも我々の側に居て下さり、あらわれないということはない。
阿弥陀様でも観音様でもお薬師様でも、自分なりに信仰している佛菩薩がある方でしたら、必ずしも自宅に本尊様を置かなくても構いません。その仏様のことを思って手を合わせる時、仏様は現前(目の前に現れる)致します。
確固たる信仰とまでいかなくても、自宅に仏壇があったり日頃から菩提寺を身近に感じたりして居られる方でしたら、上記の回向文もしくはそれに近い気持ちを持っておられると思います。
前置きが長くなりましたが、Tk_K46さんが仏様をお祀りする場合は、下記のような方法で御検討されたら、いかがでしょうか?
1、ご実家の菩提寺の御本尊様、もしくは御宗旨(宗派)の御本尊様
2、先の質問で「達磨大師様が伝えられた武術をルーツにしている」と書いておられますが、達磨大師は禅宗の祖と呼ばれる方です。禅宗の伝統では、お釈迦様を初代の祖師としており、達磨大師は28代目の祖師にあたるとされております。お釈迦様すなわち釈迦如来を本尊様としてお参りされたら、宜しいかと思います。
費用面のことも気になるかもしれませんね。仏壇用の本尊様は仏像となりますと、数万円から数十万円ぐらい致します。仏壇用の掛け軸でしたら、数千円で購入できると思います。
拝むということ
拝むという行為は、対象を作り偶像に向かい何かを願ったり、祈ったりするものではないのでしょう。
一般的には、自分と、自分以外のものというように分けて物事を考えるので、仏像を拝むように感じると思います。
しかし、本来は、対象を拝むのではなく、目の前に広がる様子はまさに自分自身のようすであることを知り自分自身を拝むかのように手を合わせることができる。それがお釈迦様から今に伝わる様々な偉いお坊さんたちの姿なんでしょう。対象を作っているうちは本来の手を合わせる行為になっていないということですから、私たちは修行する訳です。
対象になる仏像がなくても手を合わせる行為そのものに意味があるのです。もし対象が欲しければ紙に”〇〇菩薩”とか書いて貼るだけでも良いと思いますよ。
自分が惚れる仏さまを探しましょう!
Tk_K46さん、こんにちは。
特定の寺院、宗教に入っていない場合は、いろんな仏さまを調べたり実際にお寺に行って仏さまを見て、自分の心と波長の合う仏さまを探してみてはいかがでしょうか?たくさんの仏さまがおられますので、必ずあなたに合う仏さまがいるはずです。
または自分の仏教の師を探すのもいいでしょう。もし師が見つかれば師の尊崇する本尊を自分も祀るのは普通です。
そして一番スタンダードなのは、やはりお釈迦様です。お釈迦様から信仰をはじめて、そこから広げていくというのもいいでしょう。
がんばって、my仏さま を見つけてくださいね!合掌
師僧を探されてみられる
Tk_K46様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏様に礼拝(敬礼)するというのは、三宝への帰依と共に、菩提心(悟りを目指すための強い意志)を起こし、しっかりと仏道を歩んでいくために大切なこととなります。
また、どうか尊い教えをお授け下さいという勧請の意味合い、しっかりと賜りたいという受け手の側の真摯な心の表れでもあるかと存じます。
ご本尊様をお祀りになられましたら、しっかりと礼拝(敬礼)致して、仏法を学び修して参りたいものとなります。
ご本尊様につきましては、菩提寺も無いようでしたら、一度、仏の教えを説いて頂ける師としての僧侶をまず探されるということからでも。
やはり直接に仏様から教えを賜ることができないこの現世においては、その法を確かに扱い実践している師となる先生がやはり必要となります。
師を探されることから、その師より、ご本尊様のことも具体的にご指導を受けられていかれると良いのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
邦元様
御回答ありがとうございます。
自分の拝む仏様はむしろ名がないほうが善いと感じました。
たとえば、山に登ったりしたら、みえる景色に「ありがたや」と拝み、
空手の稽古をしては、達成感やスゴワザを見た時に「ありがたや」と拝み、
道を歩いては何か発見しては「ありがたや」と拝めばいいんだと、
無宗派なりに考えました。
すこし、いいことに気が付きました。ありがとうございました。
吉田俊英様
御回答ありがとうございます。
考えようによっては、武道を通して、達磨大師様⇒お釈迦様へとつながるということもできるかもしれないわけですね。
仏壇やお軸の件もなかなか捨てがたいですが、
ひとまず「トレーニングしては拝み...」という段階を愚直に繰り返してみたいとも思っています。
ありがとうございました。
染川智勇様
御回答ありがとうございます。
そうですね。myほとけを捜すことのプロセスを楽しむという考え方もありましたね。
今日見つからなくても、明日見つからなくても焦らず、
新興宗教に騙されず、邪魔されず、myほとけを探してみます。
ありがとうございました。
川口英俊様
御回答ありがとうございます。
そうですね。
自分勝手に仏様を探して、拝んでいては、
独りよがりのインチキ宗教と変わらないということに気づきました。
空手も師範に学ばなければ、
ただのケンカの練習に過ぎないというのと同じで、
仏の道も正しい師に導いてもらわないと、
良い結果に結びつかないわけですね。
私は浅はかでした。それに気づきました。
ありがとうございました。