回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おそらく過去の質問から、あの事ではないかと思って回答します。
他人様は他人です。
親であっても別人、別人格、別存在です。
自分の高い理想をぶつけないでみてください。
高い人間性をその相手に要求することをやめてみてください。
「ああ、この人はわたしとは本当に違うんだ」という事がハッキリします。
あなたはあなたの土俵を生きればいい。
あなたはその人の土俵に入らなくていい。
自分のフィールドを生きなさい。
それが、赦すこと。
ゆるめること。
相手を赦すのではなく、
自分の執着をゆるめる事なのです。
相手を赦す、とは相手を赦すことではなくて、自分をゆるめること。
自分の執着を緩め、解くことであったのか、ということに気づいて頂く為のお話でした。
さぁ、もうその縛りはほどけたはずです。
もともと、あなたを縛っていたものは何もなかったはずです。
自分を生きてください。
自分の今を生きてください。
自分の見える、聞こえる、感じる世界を、自分が安楽で居られるように過ごしてください。
「許し」とは、自分の固定観念からでる言葉です。
「なければいけない」「あるべき」が、許す許さないをつくります。
「なければいけない」「あるべき」という観念がなければ、許すという観念さえありません。
「許す」という観念のないところには「許される」ということもまたありません。
「許せない」と思う心が、許すか許さないを生んでいるのです。
あることはある、されど、あることすら無い。
それが仏教の考え方です。
「こうあるべき」と思えば許せず、「これもある」と思えば許せる。
「これもある」と思うなら許されず、「これすらない」と思うなら許される。
こんな感じでしょうか。
許容という意味ならば、全てを受け入れる「あるがまま」と言う意味になるかも知れませんね。
私たちの生活のには、真実以外のモノは存在していません。目の前にあるテレビ、パソコン、鉛筆、消しゴム、本、人、ペット・・・など
人には思い考えがあると思っていますが、それは出てきては消え出てきては消えます。パソコンのキーボードをたたく指先の感覚は、触っている瞬間はそこに感覚がありますが、話した瞬間に消えます。そこに執着もなければ妬み、苦しみ何にも存在していません。心も同じ、それを捉えることにより苦しみが生まれます。
許す、許さないという感覚は思考の世界。実態のない嘘の世界。騙されやすいですが、考えは嘘です。
人を許す許さないの前に目の前に存在している。それを目は拒絶することもなく、そのままに映し出しています。それが真実。そこに出てきた、自分の考えというリアルではないものを信じてはいけません。振り回されないでください。
「許し」という一般事象、自分が「許す」、他者に「許される」という三つの観点からのお尋ねなのでしょう。
まず、「許し」とは、
憎しみに激怒で立ち向かうなら戦いも争いも終わらない。 許すことがすべての憤 (いきどお) りと 妬(ねた) みを終結し あなたを永遠の至福に導く(ダンマパダ5)
というお経の言葉によれば、憤りと妬みを止ませ永遠の幸福に導くこと行為です。心を平穏にする行為と言い換えることもできるでしょう。何故なら、「憎しみに激怒で立ち向かうなら戦いも争いも終わらない」、が相手を許したなら、憎しみ、激怒、怒り、妬みが止み心が平穏になるからですね。
では、どう自分が「許す」か、どうしたら許せるのか。許し方については、チベット仏教の修行僧の米国人医師、バリーさんの、
http://humanvalues.jp/tag/%E8%A8%B1%E3%81%97/
などを参考にしてください。自分の敵をもいとおしむ慈悲の瞑想も参考になるはずです。仏教の叡智による具体的な許しの方法を学んでください。
他者に許されることについて、浄土真宗の親鸞聖人は、仏様の教えを「聴聞」するということについて、聴を「ゆるされる」と訓み、「ゆるされて聞く」とおっしゃっています。私たちは本来、仏様の教えを聞く立場にはないが、とくに「ゆるされて」救いの言葉を聞かせていただくのだということです。したがって「許される」とは本来はその立場にない、その資格がない者が特別な配慮によりその立場を与えられることという意味でしょう。広大な仏様の慈悲の心のうちにあることが「許される」ということかと存じます。
最近、世の中は、罪を犯した者を許さない、という傾向にあると思います。自らが「許されて」今ここに立場を得しめられている者であると考え、憎しみを止めて許すことにより自他の平安が得られるのでしょう。実際、自分が被害者になったら言うほど簡単には許せないかもしれん阿泉が。
許すというのは、何か悪いことをした人や、自分に危害を加えた人を許すということでしょうか?
まず、仏教では慈悲の心を育てましょうと言うので、慈悲の邪魔になる怒り・憎しみは、いかなる理由があってもなくすほうが善いのです。
また、戒律においても、謝罪している人に対して怒って許さないことは、ダメな態度です。
ですから、感情面では、怒らずに慈しむ心が重要で、感情面では許さねばならない、と言えるでしょう。
一方で、色んな組織・社会には規則や法律がありますから、感情面で許していても規則上の罰則を免除するわけにはいかないでしょう。
仏教徒が警察官だったら、犯人に対して怒りの感情はないかもしれませんが、法律上逮捕しなくてはならない犯人なら、逮捕します。
その場合は、「かわいそうだが、法律で決まってるペナルティだから仕方ない」という感じで、
「ざまあみろ!いい気味だ!」とは考えないでしょう。
ありがとうございます 。全ての解答を読み返しています。
何回か読ませて頂きました。
愚痴の様な文章を避けるために
スッキリとした文章で
質問させていただきました。
本当に勉強になりました。
心を育てさせていただいた事に
感謝です。