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夢だったことを諦めること

回答数回答 5
有り難し有り難し 96

今やっている仕事を、やめようと思っています。

いくつかお訊ねしたいです。

まず、夢を諦めることは、負けや逃げなのでしょうか。
後悔するかどうかを見極める基準は、どこかにあるのでしょうか。あるとしたら、何でしょうか。

次に、私は、夢だったはずの今の業界に、夢だったポジションに身を起きながら(3年契約ですが)、今や完全に興味とやりがいを失ってしまっています。この道における自分の将来性も。
追い求めていたはずの夢が、急に姿を消してしまったような感じです。
こんなことがあるのでしょうか?
ただの逃げでしょうか。
やる気ややりがいがなくなることは人間ありますから、一時の気の迷いだと思って今まで奮い立たせてきましたが、ここ1年だけみても、1週間以上そんな気持ちが続くことがもう何度もあります。
自分のプライドが、今やっていることを「夢」だと信じ込ませている感じがしています。

また、自分の本当の願いを知る方法はありますか。

漠然として曖昧な質問で申し訳ありません。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

TO BEではなくTO DOの夢を。

miさま

ご質問ありがとうございます。お気持ちよく分かります。
私も、夢を叶えてみると「こんなものか」となった時がありました。
その時に思いました。
夢というのは「過去に作り上げた自分像でもあるのだ」と。
そして、あることに気づきました。夢には2種類あると。
1つはTO BEの夢. 1つはTO DOの夢。

小さな頃に憧れた夢。
野球選手、医者、ダンサー、モデル、社長、お金持ち、ヒーロー…

青年期に憧れた夢。
コンサルタント、映画監督、音楽家、美容師、僧侶…

小さいころの夢は、TO BEの夢でしかない、ということです。
そして、遂に現実として叶えたその夢は、憧れとして抱いていた夢とは違うものであった。

抱いていた夢と現実が異なることは自明にも関わらず
抱いていた夢への思いが強すぎて、異なる現実をつきつけられた時に
一種のアイデンティティ・クライシスが発生してしまいます。

これは、誰にでも起こりうることなのかと思います。
特に血が滲むような努力をして叶えた夢や
自分がその道しかない!と追いかけ続けた夢は特に。

夢が現実になった瞬間は歓喜に包まれるもののその瞬間は、儚くともすぐに過ぎてしまうものなのでしょう。

その時に、一番重要なことは
TO BEの夢への執着を捨てて、TO DOの夢に切り替えることだと思います。

実はその夢は、スタート地点に立っただけなのかもしれません。
その夢であったポジションにおいて

誰に
何を
どのようにしたいか。

ここまで言語化出来て、本当の夢になるのだと思います。
そして、言語化出来るかどうかが夢を追い続けるか、違うものを追いかけるかの判断基準にもなると思います。

私は、下記の順序でした。

坊さん→素敵な坊さん→社会や世界のことをよく知っている坊さん→日本の和の仏教を世界に発信するグローバルな坊さん→グローバルな坊さんになり、日本の和の仏教を世界に発信したい→和を尊ぶ世界を作りたい

過去の夢に引きずられて、それを意固地になる必要は全くないです。

そのTO DOの夢が現在のやられていることと異なったら、それもまた人生。
追いかけた夢は、実は自分には合っていなかったということが分かった。
ということなのかと思います。挑戦したということが財産なのだと思います。

miさんが輝ける夢が見つかりますようにお祈りします!

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有り難し
おきもち

天台宗 高龍山明王院普賢寺 住職。 一般大学、アメリカ留学、一般企業を経...
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元々無いものはいつでも描き直せる。

夢は、元々何も無いところに想像を膨らませて自分の道を作り、自分の道の到達点として目標を掲げて、その目標の完成図を「夢」という言葉で括っているだけに過ぎません。

目標は達成した時点で目標ではなくなります。
夢もまた、いまだ実現していない時に描いているものが夢であって、実現した時点で夢ではなくなります。

目指した完成図と違えば修正も必要かも知れませんが、
目標を完成したら、もうその設計図は必要ないのです。

夢とは、自分の欲望が目標とする虚像であって、実現してしまえば虚像ではなくなります。
人は、ここに無いものに夢を抱くのです。

仏教では、この世は全て妄想から生じていると教えます。
しかし、全て現実ではない妄想だとしても、考え方をはき違えると、自分が進歩するための目標すら描くことが出来なくなってしまいます。

一つの目指した完成図を諦めることを「夢を断念した」というのかも知れませんが、元から無いものに心を注ぐのですから、途中でやめても何も無くなりはしません。
無くなったと思うものは、その時の自分が描いていた完成図だけです。

でもそこには、それまで自分のやってきた「経験」というプロセスがしっかりあなたの中に残っています。

一つの完成図が無くなっても、形を変えて違う完成図を描けば良いだけのこと。

今まで培ってきたプロセスで、人はまた新しい設計図を描くことが出来るのです。

自分の描いたものは、自分で如何ようにでも修正できます。

後悔するかどうかは、その時その時にかける自分の情熱が自分の満足出来るものだったかどうかで決まります。

新しい完成図を描いて、今から真剣に設計図を準備したら良いのではないでしょうか?

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有り難し
おきもち

夢は必要でしょうか

miさま

「まず、夢を諦めることは、負けや逃げなのでしょうか。
後悔するかどうかを見極める基準は、どこかにあるのでしょうか。あるとしたら、何でしょうか。」とのご質問ですが、そもそも夢ってなんでしょうか。世の中では夢を持て夢を持てと言っていますが、これは、どういうことなのでしょう。生きることに対して消極的な人に対し言っている極端なことのように思います。

私たちは、夢は持っていなくても間違いなく生かされています。
この仕事をやりたいやりたくないなどという気持ちは、単なる気持ちにすりません。欲望かもしれません。欲望が悪いと言っているのではないのです。欲望は満たされると、またほかの方向に向きます。やりたい仕事に就いた。しかし、やる気が出ない。不満があるわけではない。という感覚は、もしかすると今までやりたいと思っていた欲望が満たされたからさらに刺激のあることを求めているのかもしれません。

あまり気持ちに振り回されないようにしてください。気持ちは次から次へと出てきては消えていきます。考えの世界では答えは出ません。いくら考えても、損得や、プライド、こうあるべき、といった後から付け加えた気持ちに振り回されるだけです。

続けられる仕事かどうか、現実を見つめてみてください。後から付け加えた考えで見るのではなく、現実の仕事を。ついて行きたい上司がいる。とか仕事内容に共感する部分が多い。など・・・そして、続けられないともし思ったら違う道を選べばいいじゃないですか。
「人生こうでなくてはいけない」「こうあるべき」なんてことは一つもないと思います。

夢もなくてもいい。ただ、自分が悩みもなく続けられる仕事かどうかということです。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す...
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遠い夢 から 実現可能な目標 に シフトチェンジ

夢という言葉で考えるからいけないのかもしれません。
夢という言葉でそれを取り扱っているから「夢から覚めない」のかもしれません。
手が届かないからこそ の「夢」
叶えてこその「夢」
夢は実現する ーーー 成功者たちだけがこの言葉を独り言のように口にします。
みんな成功者になったら世界はどうなるのでしょうね。
夢は実現するもの?自動でなるもの?させるべきもの?(^<^)
「夢はいつかきっと叶う」と言います。
ところが、そういう夢をかなえた人は大変建設的で、努力している人たちです。
夢をあいまいにせず、実質を見極めているからです。
目標を具現化させるためのひと手間ひと手間をおしまない。
何をすればそこに近づくかが分かっている。
コツコツと、一歩一歩をやっていくほかありません。
夢を見させてくれる内なる世界で、夢を見つづけるべきか。
夢を実現する現実の世界で、行動をし続けるべきか。
時間は夢の実現に向けて行動する時間として使われるべきであり、夢をみる為の時間に使われるべきではありません。
目標、願望を実現させるには、そこしかありません。
夢を壊してしまうようで申し訳ありません。
ですが、そこが壊れれば、必ず夢を建設的に、具体的に実現させることができるのです。
たとえですが、私は、かつて砂で山を創ろうとしていました。
砂上の楼閣は崩れました。
ある時から、砂ではなく、土で作りました。時には塵、ホコリでも山にしました。
最初から砂でなければ城は作れないと思っていただけだったのです。
それは執着でした。
他のものでももっと高い山は作れるのです。
そこにのぼれば景色は同じ、それ以上です。
山でなくても、頂上でなくても良いのです。
どんなものでも積み上げていく行為の中に、いきる、活かすという響きがあります。

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おきもち

一切は「如幻」・「如夢」である

mi様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「夢」や「理想」にしても、「実際」や「現実」にしても、「実現」という「結果」のためには、因縁(原因と条件)が必ず必要となります。

何事においても「結果」へと向けた「因縁」というものがあって、その中で、自分の思い通りの結果となっていれば、それはそれで自分の「夢」として叶うこと、叶ったとなり、満足できるのでしょうが、しかし、いつまでも思い通りの因縁を調えられて、思い通りの結果を継続し続けることは、実はかなり難しいものがございます。

特に、欲や渇愛、執着などによる煩悩、あるいは無明(根本的な無知)により、「現実」という結果が受け入れられなくなればなるほどに、不満やストレスを抱えて苦しむことになってしまいかねなくなります。

また、因縁に関して、自分だけで調えられることには、かなりの限界がございます。そのため、周りの多くの皆様による支えや助け、励まし等、周りの環境・状況も相当に必要となり、また左右されることになります。

何事も多くの支えや助けがなければ成り立たないことを仏教的には「縁起」と言いますが、それは端的に述べますと、全てのモノ・コトは、他に依存することによって成り立っているということになります。

仕事を辞めるにせよ、夢を諦めるにせよ、後悔するかどうかにせよ、独り善がりとならず、自己満足に陥らず、一度、ご自身の周りの現状を冷静になって見られて、周りによるこれまでの支えや助け、そして、それらへの配慮、感謝や報恩の思い等も勘案した上で、ご自身の思われる結果へと向けた因縁が、ご自身の状態と周りの状態からもそれなりに調えられそうであるとなれば、継続されてみられる、もし調えられそうでないならば、少し周りとの関係を再構築されてみられる、その中で辞める、諦める、勇退するというのも選択肢としてはあり得て良いのではないだろうかと存じます。

最後に、「追い求めていたはずの夢が、急に姿を消してしまったような感じです」・・このことは、ある意味で真実です。一切は「如幻」・「如夢」であると仏教において表現することがございます。

この理解のためには、仏教における「空」と「縁起」の教えをある程度学ぶことが必要となります。また是非ご興味がございましたら仏教を学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

>円通寺 邦元様
早速のご回答ありがとうございます。とても参考になります。
たしかに欲望はある程度満たされてしまいました。もうたくさんだ、という気持ちもあります。

一つ疑問なのですが、「気持ちは次から次へと出てきては消えて」いくのであれば、どのようにして選択をおこなっていけばいいのでしょうか…。

おそらく今の仕事はやめます。
「続けられる心の状態」よりもストレスや辛さ、それらを引き起こす悩みの方が相当大きくなってしまっているから、というのが理由の一つです。

またいろいろと考えすぎてしまいました。何も考えずに生きていけたらいいのですが。

>普賢寺 小野常寛様
ご回答ありがとうございます。
身バレを恐れたあまり具体的に書けなかったのですが、「何をどうしたいか」は明確にしていたつもりでした。だから今のポジションにつけたはずだと思うのです。「夢であったポジション」ではなく「夢の実現につながるポジション」というのが正確でしたすみません。
挑戦した過程が無駄にならないことを祈ります。ご回答ありがとうございました。

>受法寺 小原観慈様
ご回答ありがとうございました。大変救われました。
一度捨てた完成図は、もう二度と取り戻せませんが、そこで得た経験までも失わないように、また新たな完成図を作って一歩ずつ進んでいこうと思います。
しかし、結局夢も希望も人間の妄想なら、生きるというのは何とも儚いものですね…。

>安穏寺 (天岑寺) 丹下 覚元様
ご回答ありがとうございました。
言葉足らずでした、すみません。数々の実現可能な目標のかたまりが、夢だと私はとらえております。夢というから誤解を生むのかもしれません。「より大きな目標の実現」のために、どうすればいいかはわかっていたつもりでした。だから今のポジションにもつけていますし、今のポジションにおいて、やっていかくべきこともわかっているつもりです。
しかし、本当にその先にたどり着きたいのか、というのがわからなくなってしまったので質問させていただきました。わかりにくくてすみませんでした。

ごめんなさい、私が「建設的」でなく、努力もしておらず、コツコツと行動を重ねることもせず、ただ「夢をみて」時間を無駄にしてきた人間だと言われているようでショックでした。私の手にしたポジションは空から降ってきたわけではありません。
誤解していたらすみません。

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