良い事をする
初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。
私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。
上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。
例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。
少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。
純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ただ相手を思って行うだけ。良いかどうかは相手の判断。
はじめまして。亀山純史と申します。私からの回答は以下の通りです。
あなたが行った行為が良い事か悪い事かは、あなたが決めるのではなく、その行為を受けた相手が判断することです。「小さな親切 大きなお世話」という言葉があります。自分では親切なことをしたと思っても、相手にとっては大変迷惑な行為だったりすることもあるものです。
また、自分は良い事をしたと思っても、相手から感謝されなかったら、「これだけのことをしているんだから、お礼の言葉くらいあってもいいだろう。あの人はなんて常識のない人だ。」という気持ちが生じませんか。そして、良い事をしていて、このような気持ちが生じるならば、その行為は本当に良い事だったのでしょうか。単に、相手の反応を試しただけのことのようにも思えてしまいます。
そう考えると、やはりあなたが行った行為が良い事か悪い事かは、あなたが決めるのではなく、その行為を受けた相手が判断することです。したがって、この私からの回答を例にとれば、この回答が「良い」回答であったかどうかは、私が判断することではなく、この回答を読んでくださる方々が判断することになるのです。
結論としては、あなたはただ相手のことを思って行うだけです。それが良いことかどうかは、相手が判断します。自分から「良い事をした。」と思ったら、それは決して純粋な気持ちからの行為ではないと思います。純粋な気持ちからの行為には、「自分は良い事をした。」という思いはないのです。
自他のへだてをの無くす
お釈迦さまや祖師方やキリストさまなど聖人たちの精神は「いいことをしよう」とか「そうだ、ボランティアしよう」と思ってやっているのではありません。
瞑想・禅定・祈りによって自我意識(我見、エゴ)が滅し、おさめられた精神状態であるから、自然に相手に隔てなく、見返りなく、条件なしに尽くせるのです。
サービスやいわゆる利他とは違うのですね。
無我 ⇔ 自我(自分を固定的に認める精神)
人間は自我を過剰に認めるとエゴ・自己中心的な心がどんどん増長し古来より各宗教で餓鬼・マーラ・デビル・サタンなどと言われ象徴化されてきた自分の都合の事しか考えられないような❝良からぬ❞人間性になってしまうものです。
そういう精神状態をこそ修羅・餓鬼・畜生・地獄と言えます。
それに憑りつかれた人間が現実の世界で、奪い合い、我田引水、戦争、虐殺、犯罪を起こしています。
瞑想や坐禅・仏行はこれら自我の増長を食い止めます。
さらには自我の炎が滅し尽きるまで深い禅定状態(行 深般若波羅蜜多)の説き、自分と相手との境界線が無くなって「非思量」「心身脱落」という境涯になります。
道元は元より、脱落身心(本来成仏)であったことに気づきました。
この状態に気づくことが悟りです。
悟りというの、考えマインドから事実マインドに切り替わる瞬間の事なので、その後は、考え・思考を離れた「非思量」「涅槃」の状態に至ります。
そこから行為されるのが、人間本来の慈悲です。
慈悲とは、相手が困っている時などにも自然に手を差し伸べられるのです。
誰でも一度くらいは、この心身を「自分」と思っていない時ってあるでしょう?
我を忘れている、無我無心、自己主張を離れた自分、自分ルールを滅した自分。
「私が私の為に」ではなく「ワタシともしらんものが、とっさに」。
人は何故、人の不幸でも自分が痛ましく感じるのでしょう。
なぜ、映画や自分と全然関係ない人が巨大な籠の中にボールを蹴り込んだり、棒でボールを遠くへ飛ばしたりすると、泣いたり喜んだりするのでしょうか?(↑サッカー・野球の意)
それらは一つの人間が無我の証明なのです。
今から、何と話に、理由付けも無しに、相手にとって助かるであろうことをさりげなくやってみてください。すべてがつながると思います。
人のためになる“かも”しれないことを、自分のためにする。
初めまして、霊河太樹(よしかわたいき)と申します。
抱えているお悩みをhasunohaに投稿していただき、有難うございます。
タイトル通りです。
ヒトというのは元々、
みっともなかったり、情けなかったり、しょうもない生き物だったりします。
だからこそ
他人に親切で在ろう、素敵な人間で在ろう、と自分の心を磨き成長していくのだと思います。
人が生まれた時から持っている、食欲は睡眠欲などの生きる力、本能とは違い、
善心、親切心...、いわゆる「良心」というものは持って生まれてきません。
「良心」は人の成長と一緒で、育てていかないといけないのです。
勿論、その育てた「良心」は
個人個人に形を変えていくからこそ、誤解されたり偽善だと思われやすいですし
行動した結果、誰かが傷つく、怒らせてしまうなどの失敗もあります。
ですがどんな行動でも幸せになる人は必ずいます。
荷物を持ってあげたお年寄りは、
こちら側がなんて考えていようが、嬉しそうにされてはいませんでしたか?
「重そうな荷物を持ったお年寄りがいる!」と思い動いた瞬間のLink様の心は間違いなく良心からきているものであり、その後に偽善かも...と思おうが、相手は喜んでいる。
“もしかしたらこの人のためになるかもしれないと思い行動したら、自分のためにもなった。”
優しい人で在りたい、良い人になりたい、
最初の行動理由がその手段でもいいと私は思います。
是非また今日という日からも、
自分の心に素直に、自信を持って、人を助けるような行動をしていき、
周りに何を言われようが自分の思う「良心」を育てていくよう過ごしていって下さい。
笑顔で素敵な毎日を。
長々と失礼致しました。
読んでいただき有難うございます。
霊河 太樹
自分のために
良いことをしようとするから悩むのです。
良いことをするというのは、本来自分のためにしていることなのです。
人のためなんかじゃありません。
相手の笑顔を見て,喜ぶ姿を見て、自分が幸せな気持ちになれる。
だから、良いことがしたいのです。
自分だったら嬉しいな。
こんな事してもらったら自分は喜ぶだろうな。
相手の喜ぶ顔を見たい自分がいるなら、相手のためではなく自分のためにして下さい。
自分のためにしたことが、結果的に相手のためになっている。
その時のあなたは幸せじゃないですか?
頼まれたらする
お釈迦様が悟った直後は、人々を救う気などなかったのです。
独り静かに命を全うするつもりだったのです。
しかし、梵天という神様に頼まれて、人々に教えを説いた。
そしたら、たくさんの人々から「私にも教えてください」「私を弟子にしてください」とどんどん頼りにされた。
お釈迦様のすごいところは、頼まれたら軽々とやってくれるところです。「めんどくせーなー」とかはないのです。
あなたも、他人から頼まれたら軽々と引き受ければよいのです。
親から「勉強しろ」と言われたら「はいはい、オッケー」と軽々と勉強を引き受けるとかでもよい。
また、他人は、たいてい、あなたの能力にみあった依頼しかしてこないので、安全です。
人を感動させようなんて計算はいらない
人をこう思わせたいとけ試算されたものは、真実ではないので、薄っぺらい感じがします。
相手にこう思ってほしい、からとサプライズを企画することも、一見素晴らしいことのようだが、そこに、計算が見え隠れすると、一気に安っぽくなり、真実味が薄れる。
人を感動させたいと、計算し、そんな自分に酔いしれた、演技をしている人の演技は人に感動を与えない。
だからこそ、自然に当たり前に、してしまった結果が感動を与えた。喜びを与えたということになるのでしょう。