hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

いつか死ぬのに、どうして生きるのでしょうか。

回答数回答 1
有り難し有り難し 41

いつか死ぬのに、どうして生きなきゃいけないのでしょうか。

私には分かりません。
死ぬのはイヤで、死にたくないから生きるだけなのでしょうか・・・。

生きていればきっといいことがある、なんて幸せな人だから言えることでしょうし、そんな保証はないのに、それでも生きなきゃいけないのはどうしてでしょうか。

必ず死ぬのに、生きるって死に向かうことなのに、その終わりの時を「今」にしてはいけないのは、何故なのでしょうか。

曖昧な質問で申し訳ありません。
どんなことでも構いません。どうかお教え下さいませ。
宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの意識が生きているのではなく

私も死のうと思った時同じようなことを考えました。
ですが、実は人間とは「自分自分した意識」がこの身体・心身・肉体に👻憑りついているような存在なのです。
あなたが「死にたい死にたい」言ってたって、自殺するその瞬間も呼吸は自然になされて心臓は自然に動いてくれています。
あなたの意識が主人公ではなく、あなたの身心があなたの命の本当の主人公なのです。
坐禅は、この自己の本来性を明らめるものです。
あなたが、この身体・自身に「アタシはこうしたい」「アタシはこうしたい」と思っていても、生命活動はまるであなたの意識とは別行動、別活動、別のありかたをしているという事をたった今、よく観察してみてください。
そうです。
あなたの主人公はあなたの「意識」ではないのです。
意識は暴れん坊将軍です。
好き勝手な妄想もすれば、凶悪犯罪者のようなこともしでかせば、自分の自然な働きとしての生命活動をわがまま勝手に終わらせてしまおうとすらするものです。
この身心のハタラキや活動は、自分の意志とはまるで無縁に今も動いているでしょう。
決まりがないのです。
そして、とどまりなく、前のことをすっかりきれいに洗い流して生活しています。
さっきまで「死にてぇ」とこだわっていたことも、新しいことに心が向けばその執着はすぐに解けてしまうもので、何も、無理に今から死ぬ必要性すらないのです。
「こうしたい」「こうすべきだ」「こうであってもいいじゃないか」というのは、人間の自分自分した自我意識のハタラキなのです。
自分自分した自我意識と、あなたの呼吸とは全く関係がなくスーフー、スーフーと無意識に繰り返されている、繰り返されてくれている「やさしさ」に耳を傾けてみてください。
ああ、この私の体は私の思いからも自由だったんだ、
ああ、わたしの自我意識がこの体を苦しめてしまっていただけだったんだ、と感じられるはずです。
生きたい、死にたいじゃなく、あなたの意思とは無関係に「生きてくれている」のではないでしょうか。
まずはご自身の中のあなたの自我意識とはまるで別に動いている本当の自分を感じ取ってみてください。そして、その命をはあなたの意思とは無関係に働いてくれているのですから死なせない様にしてあげてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

とても丁寧なご回答を有り難うございます。
私は自分の意識を主人公に考えてしまっていたんですね・・・。
確かに、私がどう思おうと生命活動を続けている・・・。
自分がどんなに自己中心的なことを考えているのか、気が付いていませんでした。

「この私の体は私の思いからも自由だったんだ」というお言葉に、涙が出ました。

誰にも言えませんでした。
本当にありがとうございます。
自分勝手な考えを改められるようにします。

とても丁寧なご回答を有り難うございます。
私は自分の意識を主人公に考えてしまっていたんですね・・・。
確かに、私がどう思おうと生命活動を続けている・・・。
自分がどんなに自己中心的なことを考えているのか、気が付いていませんでした。

「この私の体は私の思いからも自由だったんだ」というお言葉に、涙が出ました。

誰にも言えませんでした。
本当にありがとうございます。
自分勝手な考えを改められるようにします。

煩悩スッキリコラムまとめ