お坊さんへの相談が殺到しており、質問受付数を制限中です。

回答が追いついておりません。今を生きる人のために仏教の智慧を伝えてくれる僧侶の方を募集中です。

殺生を避けられない業種について

お坊様へ

私は今、転職活動の最中にあります。
年齢的にも苦戦しております。
その中、たまたま講演会で
講師で食肉処理センターの社長の話を聞くことがありました。

興味があれば見学に来ませんか?
というお話もございましたが諸事情でまだ連絡をしておりません。
パンフレットから企業研究をしておりますが「と畜」を行っているようです。
書いてある作業工程をインターネットで調べますと、一般的技術として行われる工程が殺生ですから私にとってはショックに感ずる可能性があります。

消費者として普段肉は食べております。
食卓に届くまでに欠かせない業種であると思います。

この会社に応募するかまだ分かりませんが、
お坊様から見て職務上避けられない殺生という事についてどのように考えたらよいかいくつか伺いたいと思います。

・地元のお寺の行事ではお坊様が
「私の後に続いて唱えてください、では『不殺生』…」という形でお唱えしますが、これが守れないようになりますがどうしたらよいですか?

・この業種では100kg位の動物のと畜を専門にしており、
最初の工程では生きている状態の動物にかなり接近して処理を行うようですが、その動物にどのような態度で臨めばよいですか?
(「感謝」はするべきだと思いますが、動物にとっては自分の生き死にですので、どこまで許してくれるかわかりません。
また、一日の処理頭数はかなりあるのが一般的なようなので、
「特別なお祈り動作」をしていると作業上事故の元になる恐れが考えられます。)

・ある程度頻繁にお祓いに行く、或いは毎日・毎週・毎月の単位で慰霊碑や近隣寺院にお参りに行くなどという事をするべきですか?
(何らかのたたりなどへの心配)

・工場の衛生基準で持ち込めるか不明ですが、何かお守りを所持した方がよろしいですか?

・この仕事に従事することで、
将来例えば「お坊さんになることができなくなる」とか
「一定のお寺に参拝できなくなる」とか
何か仏教上のペナルティのような何かが発生することはありますか?

とんでもない事を質問しているかもしれません。
ただ「TPPで日本の畜産がどうなるか」は他で調べられても、
こういうことはお坊様でないとお伺いできそうにありません。

大変恐れ入りますが、お坊様どうか何卒ご教示お願い申し上げます。

有り難し 145
回答 7

質問投稿日: 2015年8月3日 8:00

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

『歎異抄』第十三条より

『歎異抄』第十三条を元に、回答させていただきます。(『歎異抄』の内容を「 」で示しましたが、その内容は私なりの意訳になっています。)

親鸞聖人は「五戒などの戒律を守って、悪い行いをしない人だけが、仏の慈悲に出会うことができるならば、私たちはどのようにしてこの迷いの世界を離れ、仏になることができるだろうか。」と仰せになり、「人は誰でも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものであり、海や河で網を引き、釣りをして暮らしを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を捕らえて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、全ての人はみな同じことです。」と仰せになられました。仏さまの慈悲(浄土真宗においては阿弥陀如来の本願力)は、いかなる人にも等しく降り注がれています。ですから、どのような仕事であれ、仏さまは見捨てることはありません。しかしこれは「いくら薬があるからといっても、好き好んで毒を飲むものではない」ということです。つまり、いかなる人にも降り注がれている仏さまの慈悲に出会えるのは、〈まさにこのような慈悲を必要とするのは、この私である〉という認識に立てる時なのです。

さまざまな命の上に、私たちの命は成り立っています。そして、この私たちの命のために、他の命を奪い取らなければならない仕事があるのも現実です。そうして、そのような仕事に就いている人には、自分は肉を食べることができない、という人もいるそうです。深い懺悔の中で日々仕事をしている人たちに、私は今一度、深い感謝の念をささげ、自らの生活を省みなければいけないと感じます。
最後に、今回、このような質問をしていただき、非常に感謝いたします。

3年前

守れない「戒」

たぷたぷさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。よろしくお願いします。

たぷたぷさんは現在転職活動をする中で、仕事としての殺生や、仏教としてそれをどう考えたらよいのかと考えていらっしゃるのですね。

地元のお寺で僧侶が「不殺生〜〜」と唱えているのは、おそらく仏教徒の基本的な戒律(ルール)である「五戒」ではないかと思います。
そのひとつ、不殺生戒ですが、これは狭義では「人を殺してはいけない」と解釈されますが、広く考えると「人も動物も植物も、一切の生命を奪ってはならない」と考えるべきだと思います。
そしてさらに、自分が直接奪うのを禁ずるだけではなく、間接的に奪うことも禁ずるものだと私は捉えています。

肉や魚だけでなく、野菜や穀物を食べることも「殺生」である。
もっと言えば、石鹸や医薬品なども動物実験をしているのだから「殺生」にあたる。つまり、守れない「戒律」なのです。

なぜわざわざ守れない戒律があるのかというと、ひとつには(自分はルールをちゃんと守っているんだ!)という慢心を防ぐため。もうひとつは、生命の尊さを常に感じるようにするためだと思っています。

もしその会社に入ったとして、最初はショックを受けるでしょう。けれど良くも悪くも慣れていくものだと思います。それでもたぷたぷさんが、hasunohaで問い考えた気持ちをずっと持っていて欲しいと思います。

またおっしゃる通り、一頭ごとにお祈りの動作などをすると、業務上の支障が出るかもしれませんね。おそらく会社とし定期的に慰霊や鎮魂の儀式があるでしょうからそれに参加したり、それだけで気持ちが済まない場合は慰霊碑や近隣寺院にお参りをしたり、もし家にお仏壇があれば朝の礼拝を習慣としてもいいかもしれません。
いずれにしても、「たたりを恐れて」という姿勢よりも「感謝の心で手を合わせる」方がよろしいかと思います。

最後に、と畜も他の職種もいずれも等しく尊い仕事だと思います。
もしたぷたぷさんが将来僧侶になった時、ご自身の経験から生命の尊さを語れるようになれれば、それはとても素晴らしいことだと思います。

参考までに、「いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日」という絵本を紹介いたします。図書館にあると思いますので、よろしければご覧になってみてください。

3年前
回答僧

大慈

大切なご質問ですのではっきり申し上げさせていただきます

たぷたぷ様へ
ご質問ありがとうございます。

まず、「食卓に届くまでに欠かせない業種」というお考えは大切になさって下さい。どんな人でも食事をしなくては生きていけませんね。私たちの人生に欠かせないお仕事をして下さる方がいらっしゃることはとてもありがたいことです。
その上で、農業と、と畜業との違いは何でしょう?植物に生命は無いのでしょうか?稲は刈っても気にならないけど、動物は気になるのでしょうか?これは歴史的に仏教でも千年、二千年と続いてきた議論ですが、実は繊細な問題です。リアルタイムでと畜業と仏教界の間で話し合いがなされています。たぷたぷ様とって素朴な疑問だということはよくよく分かりますが、これを機に誰かを傷付ける恐れのあるものだとご留意くださいね。

さて、戒律主義である上座部仏教のスマナサーラ長老でさえ、「「完全に戒律を守って、完全な善なる生活ができる」と思うところがそもそも間違い、勘違い」とおっしゃっています。
私自身、東南アジアのラオスで戒律主義の修行生活をしましたが、上座部では「短期でもいいから一生に一度は出家しましょう。出家している間は戒をたもちますが、還俗したらそれぞれの仕事(と畜業も含む)を誠実に、一生懸命こなしましょう。還俗しても月二回のブッダの日は戒をたもちましょうね」という考え方でしたよ。
今は混同されていますが、昔の日本の在家者も「お盆や法事のような仏事の日は戒をたもち、普段はそれぞれの仕事を誠実に、一生懸命こなしましょう」という考え方でした。
戒って、時代とともにグダグダになったイメージがありますが、本当はだんだん病的になってるんですよ…

と畜とタタリは絶対に関係ありません。慰霊につきましては職場の考え方との兼ね合いがありますので一概には言えません。お守りは持っていること自体が失礼になる恐れがあるでしょう。職場がいわゆる『不浄』だと言っているようにも受け取られかねないかと…

仏教上のペナルティはありません。あってはならないことです。

異様に暑い日々が続いております。お疲れの出ませんように。合掌

3年前

心を正しく保つことが大切

お釈迦様や仏弟子がたはお肉を召し上がっていました。朝、托鉢に行き各家庭の残り物をもらって命をつないでおいでになりました。その残り物のなかに肉は入っていたからといって、それを避けるということはなさっていません。およばれにご招待されたときも同様です。「肉はアカン」となってのは後の話です。肉食が本当に罪なら少なくとも仏弟子に肉食はもっての他であったはずです。そうではないということは、世間の見方はどうであれ、食肉や調理に関係する職業が仏教において疎まれる存在ではないということです。

ところで話はかわりますが、私は貴方の問いに深い敬意を表したいです。生計を立てるためにはそんなこと気にしていられない、などとはお考えにならず殺生ということに罪の意識を感じていらっしゃいます。罪悪感を持てるということは、貴方は心が清らかで正しい方だからなのでしょう。そのことが何より素晴らしいと思います。

世の中には、さまざまな職業があり、いろんな人がいます。なかには自分が罪深い存在でありながらそれを罪と感じないばかりか、他者を職業や生まれた家、地域などにより差別し見下す人がたくさんいます。お坊さんのなかにも本当に履いて捨ててしまいたいほどそんな人がいます。貴方はそんな人たちよりずっとよい人生を生きておいでになります。そのお心を大切になさってください。

3年前

生活という字に答えあり

草むしりをしていた時「これは殺生ではないだろうか」と思いました。
だとしたらお米だって殺生になるぞと考え、食べなかったこともありました。
ン?ちょっと待てよ?殺してはいけない、で食べない?ならば俺が死ぬぞ?自分を殺すぞ?
お釈迦さまは?食べていたぞ?
2500年も死語も人を救い活かしつづけているぞ?
そうだ、そういう生き方、活かし方をしなければならない。

大工さんや林業は木を殺すのが仕事ではありません。
木を活かし人を活かすのが仕事です。
宮大工さんは1000年も持つ建物を作っています。
木を台無しにする、殺すような仕事をすれば木を殺し、それは
木を殺用しているのです。
木を活用する。
つまり生活という言葉に答えあり。
あなたのは、ものを「殺す仕事ではない」。
ものを「活かす、人を活かすために命を殺生、❝活生❞する仕事」なのです。
生活という字も、生きる、生かし、死しても「活かす」という字です。
それが私たちの暮らしのありようです。
エアコンも電話も食品加工の機械もはじめて作った人は死んでも先人たちの智恵が随所に生きて活かされているはずです。

仏教云々以前にあらゆる生物が他の生物を食べて、他の生物に食べられながら生きているという事を忘れてはなりません。
人間だって実はウイルス、菌、体内に寄生する微生物、蚊…などに食べられています。

殺してはいけないならば「自分も殺してはいけない」。
自分も殺してはいけないならば、他の生命を頂かなければいけない。
そこに善し悪しの思いを添え始めることが知恵の実をかじることになるのです。
仏教徒はこの分別心を超えなければいけません。

さて本当のところ究極的な不殺生戒とは、殺不殺に陥ってはならないということです。
これについては悪用されることがあってはならない金剛乗ですので、どうしても知りたければ当山に参禅にお越しください。

3年前

いただきます、ごちそうさま。

仏教徒には、守るべき五つの戒があります。「生き物を殺してはいけない」「盗んではいけない」「よこしまな性関係を結んではいけない」「嘘をついてはいけない」「酒を飲んではいけない」。

誰でも、つい蚊を叩いてしまうように、戒を守り通すのは、非常に困難です。

ですが、「戒」は、決まり事である「律」とは違って、守れない事で罰があるわけではありません。私は、習慣として「心がけておくように」という、どちらかというと「目標」に近いと思っています。(怒られるかな…)

おそらく、普段行っている「肉食」についてではなく、そのために自らが「手を下さなければならない」という事について悩んでいるのだと思います。
そこには「目標」として、「守ろう」という意識も通用しません。

しかし、嘘をつくことで、誰かが救われることもあります。
酒を飲むことで、明日への活力が生まれる事もあります(言い訳ではありません)。

自分がその仕事をすることで、他の誰かの力となることができるのです。
それは、仕事をする上で一番の喜びではないでしょうか。

浄土宗の「食後のことば」を紹介します。
「われ食を終わりて、心豊かに、力身に満つ
おのがつとめにいそしみて、誓って、ご恩に報いたてまつらん」

貴重な命を頂くことで、人はエネルギーを得て、生かされて生きているのです。
自分が頂いた命を意識して、その命に恥じぬように生きる事が大切なのです。

『キン肉マン』に出てくる「ジェロニモ」という超人は、元はただの人間でした。
超人を目指し受けた試験で、恩のある酋長が、子どもを殺そうとしていました。
ジェロニモは、酋長への恩も感じていましたが、超人としての使命を果たすため、
酋長を倒し、子どもを助けたのです。
(実際は、試験官の超人が化けた偽物だったので、酋長は無事でした)

「戒」は心がけではありますが、「仕方ない」くらいの覚悟で破るものでもありません。
ジェロニモのように、自分がどうあるべきかを常に考え、
それでも気になるようでしたら、その場でけっこうですので、
仕事が始まる前か、終わったあとにでも、
若干のお念仏をお唱えください。
たぷたぷ様の悩んでいる気持ちが、少しやわらぐのではないかと思います。

3年前
回答僧

願誉浄史

できれば殺さないほうがよい

殺せば殺すほど殺し癖がつく。
怒れば怒るほど怒り癖がつく。
心に悪い癖(罪業、悪いカルマ)を蓄積させると、悟りの妨げが増えるのです。
悟りから遠ざかるということは、悩み苦しみが消えないということです。
それをわかったうえで、どうするかは本人の選択になります。
スポーツ選手が筋トレをするかしないかと似ています。
筋トレをしなくても試合に勝てるかもしれない。
しかし、筋トレしたほうがより効果的だと推測できるのなら、できれば筋トレしたほうがよいのです。
なお、悟って、輪廻転生の流転から解脱すれば、仕事で殺生しなくてもよくなります。
殺さないように努力すれば殺す必要のない世界に行け、殺し続けるとなかなか殺し殺される世界から抜け出しにくい、恐ろしい法則です。
私がなぜこんな厳しいことを申し上げるかというと、浄土宗では、自分の愚かさ(煩悩)を自覚するのが重要とされるからです。
ただし、阿弥陀仏は、そんな罪業まみれの者でも極楽浄土に迎えてくれると経典にはありますので、殺生してても仏の慈悲から見捨てられはしません。

3年前

質問者からの有り難し - お礼

なごみ庵の浦上哲也様

ニックネームたぷたぷでございます。
貴重なご教示を下さり誠にありがとうございます。
よく理解できるように印刷して拝読しようと思います。
まだ転職活動は続きそうですが、
この業種にお世話になる場合は頂いたお話が支えになるように努力したいです。
ご指導下さり誠にありがとうございました。
また投稿いたします。

大慈様
ご教示下さり誠にありがとうございました。
とともに不用意な質問をしてしまったようです。
自分の不安だけばかりで、後で読む方の事に思いが至りませんでした。
僧侶の皆様や従務されている方が不快に思われましたら許してください。
削除についてですが、詳しくわかりませんがこのサイトにはそのようなボタンが無いようです。
今後気を付けますお許しください。
詳しくご指導下さり誠にありがとうございました。

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