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トラウマ、心の苦しみとの向き合いかたについて

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お世話になってます。

心の苦しみへの対応の仕方についてお聞きしたく参りました。

軽く調べたところ、心の苦しみに対して2つ方法があるように感じました。

1つは心の苦しみは自らの心の癖が産み出しておるので、苦しみに対応しない、放っておき、日常生活に集中して、心の癖を変えて行く方法。

もう1つは苦しみに集中して感じきって浄化するという方法。

私の浅はかな知識と経験ではこのような書き方しかできませんが、この2つではかなり対応の仕方が違うように感じます。

今の私の実感としては、意識の深いところ、無意識レベルで苦しみの回路が出来上がっているように感じます。

どう思われますか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

トラウマ プラス

まず、無いものは相手にしなくていいのです。
一休さんが「屏風からトラを出してください」といった話が示すように、
もうすでに「ありもしないもの」をおさめようとしなければいいのです。
もうすでに「ありもしないもの」を心の中で強く握っているのが執着です。
離そうとしないのも、こちら側の自己責任です。

トラウマの苦しみは、錯覚に似た心情です。
もうすでに終わったことをあたかも「まだ有る」と思い込む。
さらに何度もリプレイして、反芻思考をする。
反芻思考 プラス 自分の思いの毒塗りをしている。
それがトラウマの正体です。
厳密には、トラウマといっても、その思いが出てきた時点ではまるで無害なのです。
これは精神科医でも見抜ける人が多いので坐禅をしている人でないと説明だけでは見抜けないかもしれません。
あ!今トラウマな思い(公)が出てきた。
その直後!に、自分で私的な取扱い(私)をしているのがわかりますか?
我が身にひきよせて、煮つめて焦がして、焦げた煙があなたを苦しめているのです。
出てきた時点で今までは自分キャッチしていたことに今気づくべきです。
思いというものは無意識のうちに何千発も公のものとして出ています。
分かりやすく言えば、あなたの心の川にドンブラコ、ドンブラコと流れてくる、公のトラと馬は、拾い上げてはいけません。私的な扱いをして飼い慣らそうとするから噛まれます、後ろ脚で蹴られます。(笑)
思いそのものが発生時点ではオフィシャルな働きなので苦しみはありません。(公)
ただし、拾い上げやひきよせをして、現実とのギャップがあると苦しみになります。(私)
苦とは「思い通りにならない」という状態を表す言葉で、苦しいという事ではありません。
私は物事それ自体には苦しみは感じません。
目の前のイスを見ても机を見ても何とも苦しくありません。
暑い所に出れば苦しいでしょう。でも涼しい所は苦しくないでしょう。
これを悟れば五蘊盛苦ならぬ、五蘊常楽、五蘊安楽です。
宇宙も自分も元々全てがオフィシャルです。
心の中に出てくる思いも、元々オフィシャルなのです。
であった直後に、我が身にひきよせて自分の思いを添えるから苦しみが始まるのです。
これに気づくことが悟りビジョンなのです。
さらに悟りを深めたければfbページTOKYO禅にご参加しご質問ください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

思いは思いのままに

だみやさま

思いを乗り越えようとしたり、消そうとしたり、取り扱わないことだと思います。
トラウマだとか〇〇病だとかレッテルを張ることも抜け出せないことの一つだと考えます。
(その枠に中に自分を閉じ込めてしまう)

思いは思いのまま、そのまま。善も悪もないです。
例えば、殺人の想像をしたとします。
しかし、その想像には善も悪もありません。想像しただけです。行動はしていないのです。
それを否定する必要もなければ、肯定する必要もありません。そのままにしておけばいいのです。

一方自分に目を向けると、今の自分は、しっかり呼吸をし、脈を打ち、生きています。善も悪もありません。何にも問題なく、満たされていることに気付きます。
何かに触れればふれたように、見れば見たように、聞けば聞いたように、味わえば味わったように、そのものがそのままダイレクトに存在しています。

なんの問題もありません。

思いが出てきてもそれに支配なんてされず、こうして生活できている現実に気付くことが重要だと思います。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

苦しみを理由に悪いことはしないように

肉体(五感)が受ける刺激も、心(意識)が受ける刺激も、あらゆる刺激の正体は苦です。
苦があると、心や体がじっとしていられない、動きたくなるのです。
一般的な苦痛だけでなく、快楽も、仏教では苦です。快楽が生じたときも心身が快楽に対して何らかの動きをしようとざわつくでしょう。
ご質問の、心の苦しみについても、それが脳裏に浮かぶと心や体がじっとしていられない、ざわつくのではないでしょうか。
実は、そのような苦しみは、生きている限りなくなりません。生き物には苦痛や快楽の刺激(苦)がつきものだからです。
刺激(苦)が来ると、何らかの反応をしたくなります。身体や言葉や意識で何かのアクションをしたくなります。
そのとき、私達がやるべき対処は、犯罪や他人への攻撃や悪いことをしないことです。
そのためには、自分の欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩に注意しなくてはなりません。
結論、どんな苦しみがあっても、それを理由に犯罪をしてはダメ、他人に八つ当たりもできるだけしないように。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

心理カウンセラーのお坊さん

あなたの問いはふつうの僧侶には答えにくい問いだと思います。そこで、私と同じ浄土真宗本願寺派のお寺の住職で、facebook上の友達でもある季平弘明さん、中神章さんというなどの心理カウンセラーさんにご相談になってみては如何でしょう。他にも探せば、お坊さんで臨床心理士、心理カウンセラーをなさっている方は多数いらっしゃいます。ご自身で探してご相談になるのがよいと思います。

季平さんには、以下から連絡を取ってください。

http://www.houkouji.net/

中神さんについていいますと、ウェブサイトなどはお持ちではないので、FBでお友達になってください。

繰り返しますが、お坊さんで心理学やカウンセリングの専門としている方は数多くいらっしゃいます。浄土真宗以外のお坊さんがよいのなら、別のご宗旨のお坊さん兼カウンセラーさんをお探しになってご相談になることだと思います。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

質問者からのお礼

藤岡さまありがとうございます。
私は宗派などには拘りはなく(まず知識がない)、ただ何とか苦しみを取り除き、自分を取り戻したいと思うのみです。
お教えしてくださった所を見てみますね。

邦元様、おっしゃる通り、病名をつけることで、余計に苦しいを留まらせてしまうような気がします。できることをやってみます。
ありがとうございます。

丹下様おっしゃることは頭ではよく分かるのです。しかし、実行するのが難しい。
真っ暗な世界に一人閉じ込められたようかイメージが強く貼り付いていて飲まれてしまいそうになります。
禅などをするべきなのでしょうか。

願誉浄史様
一人では苦しみに耐えられず、親や社会のせいにしたくなります。
今の自分は羽目を外した結果でもあるので、もう悪さはしないつもりです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ