hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

インターンシップ

回答数回答 2
有り難し有り難し 17

わたしは議員さんのインターンシップに参加しています。わたしのゼミでの専攻が財政であることから、論文を書く手がかりになるかもしれないと先輩がすすめてくれました。
しかしいざ入ってみると、1日10時間も議員さんのビラをポストに入れる仕事をやらされるばかりでした。「この仕事が終われば議員さんに同行したりできるよ」とは言われましたが、肉体への疲労がひどく、家に帰っても何もできず寝るだけになってしまい、チームで書くはずの論文が何一つ進んでいません。それどころか食事すらままならない状態です。

加えて、配ったビラの枚数が事務所に掲示されるのですが、そのやり方自体も競争をあおるようで嫌いですし、先輩などからはよく煽られます。最近はノルマ達成できるかが不安になって寝付けなくなってしまいました。

インターンを辞めるつもりでいるのですが、どうなのでしょうか?意見を聞かせてもらいたいです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういう世界だと知っただけでも勉強になった

始めから、やりたい仕事をやらせてもらえるわけがないのです。
期待しすぎるから辛く感じるのです。
議員さんの世界がそういう世界だと肌身で感じただけで勉強になります。
外から見えてる世界は舞台の上だけで、舞台裏でその何倍もの手間ひまをかけて準備をしているのは、どんな仕事でもそうでしょう。
辞めても単位取得に支障がないなら、辞めてもよいと思いますが、今の経験を「無駄だった」「なんか意味わからんことをひたすらやらされて終わった」「損した」としか考えないなら、何の勉強にもなりません。
期待はずれでも、何かを学びとっていただければよいと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

その政治家が本当に世界を変えるわけでもない

でも世界を変える働きかけにはなるかもしれない。
佛教では縁という言葉があります。
やることも縁。
やらないことも縁になります。
やれば、やったという事がおこなわれます。
やらなければ、やらなかったという事がおこなわれます。
それが 働きかけ 作用 結果に影響をもたらす 縁 です。
わたしどもは 縁加え とも申します。
縁を加えることで、結果が変わります。
参加しても結果。
やめても結果。
そこでどのみち学びはある。
政治家だけが政治活動をしている訳ではありません。
あなたが宗教的な行為をすれば宗教家となり、盗みを働けば泥棒と言われてしまい、人を助ければサポーターとなり、歌で人を喜ばせれば歌手と呼ばれましょう。
あなたにもできることがあるはずです。
私のリスペクトするある方は政治家の道を志していましたが、あえて政策プロデューサーの道を選択されました。表に出て活動する政治家よりも、実質的に世の中をよくするための政策、法案を考えるのです。
そういう形ででもちゃんと政治に直接かかわっています。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!「ムダ」だと考えず、後に活かせるものがないか探す、という姿勢が大事なのですね!
とても勉強になりました!ありがとうございます!

ありがとうございます。そうですよね、学生をタダ働きさせるような政治家ですもんね…

煩悩スッキリコラムまとめ