人間であるとは
私は時に野生の動物でありたいと願ってしまいます。生きること、死ぬこと、食べること、働くことに矛盾がないと思うからです。だけど、私は人間で、社会的に容認された立場でいたいと思う。だから、お坊さんに、お伺いしたいのです。俺が人間である、俺は社会の中で生きている、そう思える基準はなんなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
かけがえのない人のお役に立てるかどうか
ここで申し上げる所のかけがえのない人とは、愛する家族の事ばかりではなく、人類すべての事です。
みんな人間、同じなんだという気づきを持ってください。
ああ、みんな同じように目があり耳があり、…同じような事で悩み苦しんで、泣いて、笑って…、ああ、みんな違うかと思っていたけど根本が同じなんだという人類愛に目覚めることです。そうすると人を好きになれます。
時々どうしようもない人もいます。
でもそういう人も、悲しい過去を持っているから、そうなってしまっただけで、その人だけに罪がある訳でもありません。
つまり、あなたが仕事や家庭の中で、相手に喜んでもらえるような事をする事。
利他、利行、忘己利他などとも申しますが、この心は人に喜びをもたらせます。
私どもも、回答をして、誰かのお役に立てればこの上ない喜びです。
コミュニケーション、ですかね
こんにち、人間がこれほど地球上を支配しているのはどうしてか。
発達したコミュニケーション(言葉)と、それによる「協力体制」の規模の大きさに由来するのではないかと言われています。
1対1では敵わない「野生」の動物に対してでも、「誰かの作った」鉄砲で制圧できる。国民性とか国とか、文化というのも結局は「共通の(=通じる)言語」による。その辺りが、人間の特徴ではないかと思います。
そもそも、「野生」とは何か、「矛盾」とは何か。言葉の上にしかないもので、なおかつボンヤリしてはおりますが、それを共通理解として、貴方とやり取りができる。両者人間であり、共通の日本語を使っているから・共通の社会にいるから、でありましょう。
現代では、マウスをポチポチするだけで、ほぼ全ての買い物ができます。コンビニやスーパーで、黙って品物を差し出すだけで買い物をすることもできます。しかし、それらは全て「これが買いたいのです」という言語が、行為によって代弁(省略)されたものです。人間が独力で生きていけないから、コミュニケーションはあるのでしょう。「通じる・受け取って貰えるだろう」という下地というか期待があるから、言葉その他を発するのですね。
それはともかく、アナタの問うている「社会に容認された立場でいたい」というのは、こういった根源的な話ではありませんでしょう?私の答えですと、「日本で、日本語を使っていれば社会的存在」ということになってしまうのですから。
改めて、具体的な問いかけをされてみてはいかがでしょうか。
社会的動物なので
一般的にいうと、人間は社会的動物ですから、他者の役に立っている、他者とともにある、社会のなかで役割を果たしている等が実感できたとき、「俺は生きている」と感じるのでしょう。
私はといえば、お坊さんですから、お坊さんなのですから、上求菩提下化衆生(覚りを目指して学び、他者に法を説く)に尽きますね。仏様の教えや、私が属する浄土真宗の教えのなか、不明な点が少しでも明らかになったと感じた時、生きてる手ごたえを感じますし、法話がうまくできて聞いてくださった方々が喜んでくだされば嬉しくなります。
大きな欲があることです
ようこさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺、觀音寺 中村太釈です。
野生動物と人間の違いについて、また社会の中で生きている基準とは何か?が気になっておられるのですね。
野生動物も人間も欲があります。共通しているのは本能の欲です。食欲、睡眠欲などの生存本能と呼ばれるものです。人間には、本能の欲に加えて社会的な欲があります。本能の欲を小欲(しょうよく)といい、社会的な欲を大欲(たいよく)といいます。
人が生きる上で苦しみを抱えていますが、それを乗り越えるには大きな欲が必要であると説きます。つまり、誰かの役に立つことによって救われるということです。
自分以外の誰かを喜ばせることで、自分もうれしいものです。なぜ、自分もうれしいのか。大欲を満たされたからです。
人間である、社会の中で生きている基準は、大欲を持っていることです。誰かに笑顔を以て接することも大欲です。仏道を実践したいものです。
質問者からのお礼
確かに抽象的な質問でしたね。一つの「基準」をお聞きしたかったのは、探しているから。「自分勝手だ」、「偽善者だ」、「真剣に生きてない」など人に言われて、心が揺らいでしまうから。なぜ?何かが足りないのかな?と。だから、「“これ”を以って“そう言われても不安になったり自信を失う必要はない”のだよ」と自分自身でキープできるための「確かなこれ」が欲しい、ということだと自分で今わかりました。なお、お坊さんから頂戴したお言葉を読んで、「これ」を探すあまり、私、他人への心遣いができなくなってるなって気が付きました。