自己嫌悪が酷く、でも自分に甘い
私は、私自身苦労したと、思っています。
でもきっとそれは身から出た錆だとも理解しています。
私はいつも、手近で安易な判断を下して、今身を落としてしまったと思っています。
小学生の頃は性格が悪く、友達を何度も傷つけて、嫌われていました。
中学生の頃は、多少マシになったものの、仲違い(理由は覚えていませんが、私が悪かったと思います)を原因に不仲になり一番大事な三年の時期に不登校となりました。
高校では多少マシになりましたが、結局就職が嫌で無理やり進学しました。
その時父が仕事を辞め、一年は奨学金を頂き、つい最近完済しました。
その後親が離婚し、私は母について行きましたが、リーマン・ショックで母は仕事を失い、私は内定を取れない焦りから安易に決めた会社がブラックで給与がでなくなり、辞めてバイトをしながら就活をしていました。
それも上手くいかない内に母が入院したりしました。
その後私は学校のツテでまた安易に仕事を決めて、一人暮らしを始めました。
その後、母の仕事も安定せず、金銭援助もしたり、母が事故をしたりで、貯金もできませんでした。
やっと落ち着いて、転職を考えた今、自分には何もないと気が付きました。
安易な選択に身を任せすぎたのだと思います。
でも上記の理由があって、自分の中で「どうしようもなかった」と思ってしまう自分がいるのです。
何かできたはずなのに。
その結果が、今の状態です。
「どうしようもなかった」と諦めている自分と「お前が甘いんだ、自業自得だ」と責める自分が、いつでも頭で言い合いをしています。
許されたいと思ってしまうのです。
でも現実はそんな甘い私を許してくれるわけもないのは分かっています。
なのに「いっそこのまま逃げ切って死んでしまおう」と甘い自分が囁いてきます。
きっと今も「ここでなら『許される』のでは」と思っている甘い自分がいます。
でも何を努力したらいいのか分かりません。
どうしたらいいか分かりません。
思考停止してしまっています。
やる前から「どうせお前は無理だよ」と甘い自分が薄く笑っているんです。
こんなこと他人に聞いてもどうしようもないことも分かっています。
周りは優しくて良い人で、慰めくれます。
でもその慰めに甘えようとする自分が嫌です。
私はやっぱりこの世にいらない人間なんだと思うと、苦しいです。烏滸がましくも。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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桜の花のように
何もないとは、どういうことでしょうか。
思い通りでないということでしょうか。
人生、思い通りになることはひとつもないものです。たまたま思っていたようになることはあっても、思っていたからその通りになることはなーんにもないのです。たからこそ、ぜーんぶお任せなんです^ ^
人間的にも成長してきたから色々見えてきたのでしょう。今なら昔のような意地悪をしないでしょう。大丈夫です。失敗をしたり悩んだりした人は、成長できるのですよ。人に優しくもなれる。
仏教は赦される道です。どんな人でもそのまんまで赦され救われる道です。これからですよ。仕事選びのコツも掴んだことでしょう。様々な人との出会いがあり、別れもあり学びもある。そして信頼出来るパートナーができたりお子さんを授かったりそうしたことがあればまた生活は大きく変わります。
世の中のルールやこうあるべき、ねばならないという、当たり前は、実は全て人間の作り事。考えの話。私たちはそんな人間の作り事以前から生きているのですから、そんなもんに用はないですよね(法律は守らなければなりませんが)。だいたい世の中の常識とされていることの多くは、どうでもいいことが多いです。過去の出来事やこだわりは捨てて、これからの生活に目を向けましょう。軽やかに生きて生きましょう。
境内には桜の花が咲いています。どんな状況も受け入れ、活き活きと生きています。虫食いになり枝をおろされてもその中できちんと生きています。良いも悪いも、損も得もいわず、只々生きていますが、とても爽やかです。昔と比較する人は枝が減って寂しいと言います。しかし、事実は今の様子のみ。記憶はただの記憶です。妄想です。そんなもんとは離れきって生きる力があります。桜の花のように生きる力が私たち人間的にはあるのですよ。
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。
肯定的な言葉を頂き、涙が止まりません。
でもきっと、私はそう言って頂けるほど、成長はしていないと思います。
でも少しでも成長してると、思ってもいいのでしょうか、「全部自分のせいだ」と責め続けなくてもいいんでしょうか。
いつか、お話してくださった桜のように「あるがまま」でもいいと思える日が、来るといいな、と願います。