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病気を患うということ

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有り難し有り難し 36

はじめまして、私は、高校生から難病を患ってます。最近では、この病気になってしまったのはどうしてなのかと考えるようになりました。何か使命があるのか?御先祖様の怒りを買ってしまったのか?年を重ねるにつれて、悪いところかでできてしまい、悩みになってしまってます。 私は、病気を受け入れてるつもりでしたが、段々弱気になってしまい。おもいっきりなにかをしてみようということをセーブするようになりました。何か分かりやすいアドバイスありましたら、よろしくお願いいたします。意味がわかれば何か変わるかもしれないと思い、メールさせていただきました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病への対処法

これは私自身の病への対処法でもあります。
「病である自分を特別視しない」事が有効です。
ああ、病気なんだ、病なんだ、と思うと余計に病気ラベルの重圧が重さをまし、精神的任のし掛かってきます。
「失礼ですが、今、おいくつですか?」
え?突然なに?と思われるかもしれませんが、たった今まで、年齢の事なんて忘れていませんでしたでしょうか?
「今、何時ですか?」
こちらは9:37です。
時間なんて、時計を見るまでは忘れているものです。
忘れられているものです。
それが良いのです。
いちいち毎回取り上げなくとも、自分が病気であっても難病であってもそれを忘れられている時間があるはずです。そして、その時心は軽やかであるはずです。
病気の原因は、別に先祖様の怒りを買ったのでも何でもありません。
過去の様々な因と縁の巡り会わせで、たまたま結果的に、因果の法則的に今のようになっているだけです。そして、現在あなたは、それを悪くお考えになっておられるわけです。
そして、私がそこに今、よき花を咲かせて頂きたいと、縁を加えています。
その縁の働きかけによって、そして、それをあなたが正しく享受して頂くことによって、心は救われることができます。
自分を自分の思いで病ませてはいけません。
体の病は避けられないにせよ、心の病はいくらでも回避することができるし、より良い心になることもできるのです。どうか、心が晴れやかになれるまで縁を加えてください。(^<^)
病気は、病気の直後、悪く考えると、その悪い思いによってさらに悪化してしまいます。
これも一つの授かりだと思って頂きたいと思います。反発をしてしまうとこの状況が変えられない故にもっと苦しくなってしまうからです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

因縁生起の理は、この世の無常を知らしめてくださっています

はじめまして。亀山純史と申します。

一体、人生の価値はどこに見出せばよいのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんにも、寝たきりになってしまったご老人にも、そして障がいを持って生まれた人にも、みんなに価値はあるのです。仏教では、人は人として生まれてきたこと自体に価値あるとみています。原始仏教の経典の一つである『法句経』の第182番目には「 人として生(しょう)を受くるは難く、やがて死するべきものの、今命あるはありがたし」と説かれています。毎朝、目をさまし、「あー、今日も目を覚ますことができた。」ということ自体が、有り難い価値あることなのです。

しかし、そうはいっても、「人と同じような生活、人生を歩みたい。」と思い、何か不幸なことが起これば、「なぜ、この私だけに。」と考えてしまいます。そしてそれを合理的に説明できる何かを求めようとし、時として不幸な出来事には何かしらの意味があるのではないか、と考えたくなるものです。でも、仏教ではご先祖様の怒りなどによって不幸が起きている、などとは申しませんし、その不幸な出来事に何らかの使命(仏様が何らかの目的で試練を与えたなど)も与えません。すべては因縁によって起きること(因縁生起)として仏教ではとらえます。そして、この因縁生起を私は次のようにとらえております。

【この不幸な出来事の根底に働いている因縁生起の理(ことわり)は、この私にこの世の無常を知らしめ、やがては死するべきものでありながらも、今このように多くの命の中に生かされている私の命は有り難いことを教えてくださっている。】

以上が私からの回答になります。少しでも前向きな人生を歩んでいただければ幸いです。

追記:決して、この世の無常を知らしめるために、因縁生起の理は不幸な出来事を起こしているわけではありません。物事が因縁によって生じていること自体が、この世が無常であることの証しなのですから。ですので、私からの上記の回答では、「この不幸な出来事の根底に働いている因縁生起の理」とし、単なる「この不幸な出来事」とはしておりません。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

すでにお答えしたもののなかから

あなたとケースは異なるものの参考にしていただけると思われるhasunoha上での私のお答え示します。

留学の夢をお理不尽な理由で断念なさった方への回答です。
http://hasunoha.jp/questions/1621

災害の意味についての問いに対して、キリスト教牧師様のラジオ番組をおすすめした回答です。
http://hasunoha.jp/questions/1500

一見すると、病苦のなかにあるあなたの問いと直接は関係ないように思われるかもしれません。だまされたと思ってのぞいて(聴いて)みてください。

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おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

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