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近所の座禅会に行くのが怖い。

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有り難し有り難し 16

田舎なので、あまり寺の活動は少なく、積極的にやっているのは、近所の実は中学の部活の先輩の弟さんが住職のお寺。病気持ち(精神疾患)だし、なにか知られると恥ずかしい気がします。
よそを探しても、病気の悩みだけは相談できないです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

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そこのお寺でなくてもお坊さんは話を聞いてくれますし、守秘義務は守ってくれるはず、もし心配ならすべて打ち明ける前に確認してみてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

うつは治る

うちにはウツの人も時おり参加されます。
病名がなんであれこちらは問題にしませんがな。
坐禅を通してうつが治ってしまう人もケッコーいます。
それは坐禅で治ったちゅうより、本人が心の闇雲から抜け出すことができたちゅうことです。
それがうちの坐禅会のメインですわ。ぶっちゃけウチのメインは坐禅なんてほとんどしません。ざっくり20分です。それも坐禅中に心の在り方について話をしますので、正味10分です。足も楽に伸ばして頂いております。寝てたって構いません(笑)。
その後でお話を通して、どういう心であればいいかを私が話します。
そしてそこで参加者の方が各自、自分の心の周波数をうつで無い処、安らぎの周波数に合わせて頂きます。
何故なら、人間は本質を生きている時は病名なんてありゃしません。
心の病気というラベルは一時的ラベルです。
雲やけむりが形のある時だけ雲とかけむりと呼んでいますが、やがてその形が変われば雲でも煙でもうつではありません。
心をある一定の状態に停滞させないことが大切です。
貴女は今、これをご覧になられていた時、自分がうつであったなんて忘れていたでしょう。
今の時間をみてください。時間だって忘れていたでしょう。
時計なんて時計を見た時だけしか思い起こされません。そんなもんでいいのです。
自分が今、うつ何時何分うつだなんて、顧みなくていいのです。
忘れている時ゃうつなんて問題になってもいません。
お薬に頼らないぞ!という決意が沸いたらうちの坐禅会にお越しください。
全然厳しくない、日本一ユルイ坐禅会です。
うつは治ります。
考えの世界の住人から、事実の世界の住人になることで治ります。
それがどういうことかはこの1000字以内では説明できまへんので、ヒマな時に来て送んなまし。近くにウマいうどん、そば屋の敦平ちゅうお店があります。
それを食べにくるついでに寄るべぇ、みたいな感覚でお越しやす。(^<^)

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お坊さんて、悩みを聞いてくださるんですね。私の母の実家のお寺は、まともにいくらかかるか聞くと、とん
でもない額を言ってくるそうで、土地持ちだと思っていた叔父もまともには支払えないそうなので、いろいろなお坊さんがいらっしゃるんだなあと、感じました。邦元僧侶は本当に人のことを考えていらっしゃるのですね。こういうインターネットという通信を介してですが、良い出会いができたとうれしく思っています。ありがとうございます。お身体に気を付けて。また、よろしく(笑)

ご回答ありがとうございます。でも、私は直るウツではなくて双極性障害なのです。だから、ウツと書かずに精神疾患と書きました。20年、重いウツで悩みましたが、まさか「治った!」と、思ったら次の治りにくい精神疾患が与えられるなんて夢にも思いませんでした。ほかにも統合失調症など、大変な方々もたくさんいます。ただ、外見普通なので、健康そうに見え、悩みを軽く扱われることがあります。それは、とてもつらいです。
いろいろありがとうございました。

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