回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
やはり、涙が枯れるほど泣くこと、長い時間をかけること、信仰を持つこと、でしょうか。
キリスト教なら亡くなられた方は天国にいると信じますね。
神道なら亡くなられた方は姿は見えないけど側にいると信じます。
仏教なら、もともとのお釈迦様の教えは、この世は諸行無常ですから、亡くなれば骨になって終わりということです。
ただ因果応報の理により、生前に良い行いをしていれば、生前だけでなく来世にも良い果報を得られるだろうともいっています。
また、死という事実を通して、残された方達にこの世の無常を教えていると受け止めることができます。時間を無駄にせずに生きているうちに精進しなさい、後悔なく生きなさいと教えているのです。そして、自らもいつかは死を通して残された方達に伝える役目があるのです。
しかし、そう割り切れない人もいます。例えば私のように。理屈では諸行無常を分かっていても、心が納得できないのです。お坊さんとしては未熟者ですね。
ですから、極楽浄土を信じるのです。キリスト教の天国を信じるのに近いですね。極楽浄土に行けばまた亡くなられた方と会えると信じるのです。そして、極楽浄土で一緒に修行して仏になるのです。
この他にも仏教の中だけでも様々な信仰があります。
仏教は長い歴史の中で様々な信仰の変化や広がりを続けています。ただし最終目標が仏になる事、という点は共通です。
あなたが学び経験していく中で、1番あなたに合う信仰を見つけてくれる事を願っています。
故人のための追善また精進という行に努めるなら
「喪に服す」は仏教の教えでは無いと思います。
「服喪は仏教に非ず、されど行為自体が有意義な場合も有り 」
http://hasunoha.jp/questions/1328
但し、私は服喪を否定するわけではありません。故人のための追善また精進という行に努めるということなら、生涯励まれても宜しいのではないかと思います。一生喪服を着続けることが良いとは思いませんが、お祖母様の冥福を祈って善根功徳を積まれれば、お祖母様もきっと喜んでくださると思います。
お祖母様のために特別な宗教儀礼をする必要はありません。(しても構いませんが)お祖母様の冥福を祈って、何か善行をルーテイーンとして実践すれば宜しいと思います。
以前、私のブログに服喪についての私見を述べさせていただいたことがあります。よろしかったら、ご覧ください。
「喪に服す」とはどういうことか? PartⅠ https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/3522648.html
「喪に服す」とはどういうことか? Part2
https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/11920019.html
質問の内容を変更されたようですので、少し追記させていただきます。
大切な方を亡くされた悲しみから立ち直るためのプロセスのことをグリーフワークと言います。
『看護用語辞典』https://www.kango-roo.com/word/5151
グリーフワークとして最も有効なものが、葬儀後の中陰供養であり年回供養であると思います。大都市部では、墓地と菩提寺が遠方であるためにいつの間にか四十九日の納骨が常態化してしまい、中陰供養が省略されたり簡略化されてきております。葬儀後に納骨埋葬し、四十九日までの七週間墓参して塔婆を立てることは素晴らしいグリーフワークだと思います。地域によっては、「お逮夜」と言って住職が初七日、二七日~の前の晩に檀家の家に行き読経し住職が檀家と夕食をともにしながら故人の思い出を語り合う供養の形もあります。これも、素晴らしいグリーフワークだと思います。
悲しみ、苦しみも因縁次第なるもの
無憂華様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
無憂華・・釈尊が御生まれになられた時に咲いていた花ですね。。
「無憂」、まさに我々の憂いを無くされるために、尊く御生れになられました。
そして、「愛別離苦」やその他多くの私たちの苦しみを無くされる道をお示しなさられました。
愛する人、大切な人の死・・その現実・事実をどう受け入れ、どう癒し、どう苦しみを無くすべきか・・
拙生は、そのための一つとして、仏教における「空と縁起」という理の理解が必要であると存じております。
また、その悲しみ、苦しみは事実です。事実は事実ですが、全てのモノ・コトは因縁(原因と条件)によって成り立っていると仏教では説明致します。悲しみ、苦しみももちろん因縁次第となります。ということは、また、因縁次第によっては当然に無くせれるものにもなるということでもあります。それを是非、仏教を学び修されることによって無くせれるように調えて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌