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心を入れ替える。

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心を根こそぎゴッソリ入れ替える為には、どうすればいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつもごっそり入れ替わっていることを別角度で見る

前のものが残っていたら大変です。
自分を認識する上においては明晰なものの見方が大切です。
そもそも前のものはどこにあるでしょうか。
鳥が鳴く、10時の太陽、電話が鳴る、ランチの味、かつての飲んだコーヒー、タバコ、みな今何処にも無い。根こそぎゴッソリ無くなっている。
これを知ることが諸行無常です。空です。
この自己には何もたまらないからご安心ください。
前のものがガッツリ残っている「ような気がする」だけではないですか?
それはものの見方が間違っているのです。
自分の身心の実質は、さっきまでであっていたことをキレイさっぱり根こそぎゴッソリ終わらせています。終わっていないと思うのはあなたの頭が誤認しているだけ。
私たちは舞瞬毎瞬、毎秒毎秒根こそぎゴッソリ心が入れ替わっているのです。
ここを知らずして、頭の中で思い描いた理想を追求してもそれは考えごとで整理したというだけのことです。
仏教は思考でモノをみる哲学めいたものではありません。
自己の真実、実相が確実に一切を根こそぎゴッソリ頂いて、根こそぎゴッソリ持ってかれていることを明らかにする道です。
そこが分かればホラ、前のことはもうどこにもないでしょう。
根こそぎゴッソリ取り返させていただきました。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

入れ替える以外の方法も視野に入れてみる。

過去の質問も拝読しました。
あなたは過去に対して、そして今も、罪悪感を抱えられていますね。
このように思い悩んでおられると毎日が辛いでしょう。

私が思うに、けんさんは真面目で思慮深い方だと感じます。
特に気休めを書いている訳ではありません。
そんなのでは回答にはなりませんので。

「心を入れ替える」と質問のタイトルにありますが、頭の中身をごっそり入れ替えたいという事でしょうか。
ただ、私は入れ替えるよりも、自分を認めていく道を歩まれてはいかがかと思います。

人それぞれものの見方が違います。
あなた自身は自分が出来ていないと感じてらっしゃいますが、私から見れば先ほど書いたような感じ方をします。
同様に他の方からみても、あなたへの感じ方は違ってきます。
すなわち、あなた自身が変わることを念頭に置くのではなく、他の方の意見も取り入れることで、より一層幅が広がるのではないかと私は思います。

また、何か一つの物事を集中して行うのは良い方法です。
私は武道をある程度の年数頑張ってきましたが、フワフワしていた始める前と比べ、気持ちがドスンとひとつ座るような実感を得ました。

一つの物事に集中する事により自信がつきますし、自分も変わってきた実感が湧きます。
自信を獲得できれば、自分を認めていく事も難しくはなくなります。

自分を変えようという気持ちは、とても尊い事です。
しかし、逆説的に言えば、自分を好きになって受け容れてしまえば、変える必要はありません。

今、何もできていない自分に劣等感を感じておられますが、ここで頑張ろうと思ってもしんどくなるだけで、結果なにもできなくなる可能性もあります。
じっくり休んでいると、頭が軽くなる時が来ます。
その時、もう一度心の入れ替えについて深く考えて下さい。

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おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

心を善くするための因縁を調えることに努める

けん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

心を根こそぎゴッソリ入れ替えるためには、心とは何かをまず知らないといけません。

いったい、何が「心」と言えるものなのか・・

下記に「心」についての達磨大師と慧可大師との問答をまず参考に・・

「達磨安心問答」・・

達磨面壁。二祖立雪断臂云、弟子心未安。乞師安心。磨云、将心来。與汝安。祖云、筧心了ニ不可得。磨云、為汝安心竟。

「達磨面壁し、二祖、雪に立ち臂を断ちて云く、弟子、心、未だ安からず。乞う、師、心を安んぜんことを。磨云く、心を将(も)ち来れ、汝が與(ため)に安んぜん。祖云く、心を筧(もと)むるも、了(つい)に得べからず。磨云、汝が為に心を安んじ竟(おわ)んぬ。」

達磨大師は、(中国)禅宗の開祖です。壁面に向かって坐禅をしている達磨大師に対して弟子入りを請う、後の(中国)禅宗・第二祖となる慧可大師とのやりとりとなっております。

雪の中で面壁している達磨に対して、慧可は自らの腕を切り落として、その覚悟の程を示して、教えを請おうとします。

但し、この腕を切り落としたというエピソードは、それほどの覚悟で弟子入りを望んだということを表すための創作的なものというのが通説となっています。

慧可、「心がいまだに安らかとならずに、不安でございます。どうか、この心を安らかにして下さい」
達磨、「では、その不安になっている心を取り出してください。そうすれば、あなたの心を安らかにしてあげましょう」
慧可、「その心を探し求めましたが、結局、見つからずに得ることができません」
達磨、「はい、これで私はあなたの心を安らかにしましたよ」

以上のように、これが心か、あれが心かと探し出そうとしても何も見つからないのであります・・つまり、心というものは、どこにも実体としてはありません。もちろん、何も無いわけではなくて、色々な因縁(原因と条件)によって成り立っているものとなります。善い因縁によれば、善い心に、悪い因縁によれば、悪い心に。そんな感じであり、何かこれだと決まって言えるような実体としては無いのであります。

つまりは因縁次第ということであります。私たちにおきましては、心を善くするための因縁の教えでもある仏教を学び修することにより、善い心を調えて参りたいものとなります。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

再インストール

けんさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。

けんさんは心をゴッソリ根こそぎ入れ替えたいのですね。

なぜ、けんさんが心をゴッソリ入れ替えたいと思ったのか分かりませんが、ゴッソリ入れ替えたいなら心のOSを再インストールしてください。

具体的には、今までやったことのない体験をすることです。
例えば、高野山の修行道場で1年間を過ごしてみることです。相当な覚悟と体力、精神力が必要ですが。

空海は、「仏法ははるか遠くにあるものではない。あなたの心の中にある。なぜ、あなたは仏法を求めようとしないのか」と言いました。

心をゴッソリ入れ替えることも一案ですが、もっと大事なことは心の奥でホコリをかぶっているだけのように思いますが、どうでしょうか。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

質問者からのお礼

たくさんの回答を頂きまして、本当にありがとうございます。
川口 英俊様 ありがとうございました。
中村太釈様 ありがとうございました。
海老原 学善様 ありがとうございました。
丹下 覚元様 僕を見つけて下さりありがとうございました。

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