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怒りは抑えられるんでしょうか

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昨年は厄年のせいか、「祖父母の死」「交通事故3回」「骨折3回」など散々でした。
年下の彼と付き合うようになりすぐ1回目の交通事故。足の怪我が治った直後に、彼のバイクの後ろに乗っていて2回目の交通事故。
その後も小さな事故や、祖父の死が重なりメンタル面もかなりまいっている中、彼とのケンカが絶えなくなりました。
最初は些細なことがきっかけでお互いに暴言。
彼は私を突き飛ばし、私も彼を蹴ってしまうぐらいに。
そして先日は彼が私のケータイを奪い、首に手をかけたので助けてと叫んでしまいました。案の定、声を聞いた人が通報し警察がくる始末。
私はやられっぱなしではなく、蹴ったりしていたため、立件はせず。

彼は付き合う期間が長くなればなるほどちょっとした事で激しく怒り、少しでも思った返事や反応が返ってこないだけでも許せなくなっているようです。
浮気やお金のトラブルは一切ありません。
私との話の中で、少しズレていると感じた答えやリアクションが薄いなどで怒っているようです。

場がおさまらないので、悪いと思ってなくても謝り倒して、無理やり仲直りしています。この私の態度も悪いと思いますが、そもそも感覚が違うのに思ってる反応が返ってこないだけで怒るのが理解出来ません。

人の怒りを抑えたり、うまく分散させる方法はありますでしょうか。
別れることももちろん考えていますが、今は逆ギレしそうなので言わないようにしています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

話をしっかりと聞く姿勢が円滑に関われる方法だと思います。

厄年に関連しているかどうか、私には分かりませんが、去年はあまりにも不幸が重なり苦難の年でしたね。
これ以上続かない事をお祈りします。

喧嘩するほど仲がいいと、よく耳にしますが程度にもよると私は思います。
暴言や暴力。
しかも男の暴力は、あまり拝読していて心地のよいものではありません。
男の暴力とは、もちろん突き飛ばす行為や口での暴言すべて含んでの事です。

私の持論ですが、男は女性に叩かれてもニコニコするべしと思っております。
女性に叩かれるのが嫌であれば、その方から立ち去ればいいだけの事であり、暴力で反撃するなど、全くの無意味です。

彼があなたの反応で一喜一憂されるとのことですが、これは優美さんに同意を求めたい気持ちの現われではないでしょうか。
優美さんに自分の事をすべて認めてほしいと訴えておられるのです。
自分に自信を持てないのでしょう。
子供の頃から孤独感を感じ、その孤独感や怒りを優美さんにぶつけご自身を癒そうとされているのではないでしょうか。

しかしこのままでは、彼の要求がさらに激しさを増していく事は、容易に想像できます。
優美さんは、彼に対し迎合し、彼の話に常に気を配らなければなりません。
これが彼の怒りに対する対処になると思います。

別れも考えておられるようですが、別れたくない気持ちもあり、彼が「逆ギレ」するからという理由を自分に言い聞かせているようにも感じます。
今、幸福感を感じておられるならば、それが間違いではないのですよ。
自分が素直に感じるまま、生きていく事が正解であると、少なくとも私はそう思いますので。

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有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

お互いに自分のルールを持たない 強要しない

自分のルールを相手に要求しないことです。
人生それぞれ別行動。別人生を生きてこられた。
別行動をしてきた者同士がたまたま一緒にいるだけです。
慎み、謙遜、謙譲、尊重の精神があれば怒りは抑えるどころか生じもしません。
反対に、この自分が自分の身心である事には変わりないのですが、この名もなき存在として生まれてきたこの身心を過剰に自分だ自分だ、アタシだアタシだ、俺だ俺だ、オレがオレが、と思うことでいつの間にか人間はエゴ・自我が強くなります。
♪オレの! オレの! オレの!話を聞けぇぇぇぇ!♪ 原曲以上のエゴ濃度にになります。
ここまで生きますと、自分を大切にするとかいうことより、自分が中心になっていくのです。
それは単なるわがまま。
だから、この暴走しやすい自我・自己を慎みの心でおさめて「わたし」の中の「わたくし意識」をおさめる事が大切です。
ものをみる時に「私」なんてない。
ただ。そこにものが「ぽん」とある。
先程お昼の時にうどんのどんぶりがひっくり返っておつゆがジャーになり床一面にこぼれましたが、私はただそれだけでした。
これが私が私の身心でありながら私がないということです。
自分が無いから、自分のルールもない。腹をたつ事もない。
後はこぼれたものを拭くだけです。
そういうのを「おおらか」とか「ものおじしない」というだけです。
人間誰でもそういう人間になれるのです。
ただし、どちらかだけではダメです。
今後二人で寄り添い合って生きようとされるのであればそこに二人の人間性向上の誓いがないといけません。
仏教と学ぶとはそういう所からです。
お寺や神社にお参りすると言ってもそこに宗教心が無ければ単なる観光です。
このhasunohaに関心をお寄せ下さったのであれば、あなたの人生の中での宗教心の芽生えでもあります。
怒りをお互いに卒業するためにも、今一時的に心が落ち着いただけで終わらせたらまた繰り返しです。彼氏さんともそういうことを話しあってみてはいかがでしょうか。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
確かに別れたくないのを相手の逆ギレのせいにしてました。
そして彼は自分に自信がなく、認められたいと過去に言っていたことを思い出しました。彼は女手一つで育てられ、3兄弟の長男なので寂しい思いもしてきたと思います。

すごく心に刺さりました。私から接し方を変えてみます。別れたくないのに別れを勧められるとばっかり思い込んでいたので、安心しました。相談して良かったです。
本当にありがとうございました。

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