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クラスメイトが好きになれない

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高校2年生になって2週間程が経ちますが、未だにクラスメイトが好きになれません。

私は勉学に特化した、希望者のみが入ることができるクラスに自ら入りました。
元々気になっていたのですが、1年生の時の担任に、貴方なら入ってみたほうがいい、皆きっと静かな人ばかりだから、と後押しされて決意が固まったからです。

私の1年生の時のクラスメイトや友人が少なく、階が違う人ばかりで、クラスメイトの殆んどが顔の知らない人たちでした。
けれど、顔の知らない人ばかりでもきっとこのクラスで仲良くなれる人はいるだろう、そう当時は考えていました。

実際、今のクラスで仲良くなった人はいます。
ですがその人とはお弁当を食べる仲であり、普段共に行動する程の仲ではありません。
他にも数名話せる人はできましたが、私は弁当を食べる時以外はいつも一人です。

それは何故かというと、私自身がクラスメイトを避けているから、好きになれないからです。
正直言って、今のクラスメイトは幼稚です。
授業中にも禁止されているスマホをいじっていたり、弁当を食べながらスマホをいじったり、男女両方何が何でもスマホ。
普段は大声を出しているのに授業で当てられたら無言になり、くだらないことで担任に反抗し、いつも群れて行動する。
そんな人たちは、他のクラスにもたくさんいることは承知していますが、何故か私のクラスメイトは好きになれないのです。

私はスマホより人とちゃんとしたコミュニケーションを取りたいし、授業は真面目に聞きたい、友人とはいい距離感を保ちたいです。
こんな私と真逆の人がたくさんいて、嫌というか面倒ですし、呆れます。

違うクラスにいる友人がいるんだから私は一人で大丈夫、と我慢していますが少し寂しい気持ちもあります。
でも好きになれないのです。
弁当を食べる仲の人とだって(向こうから来てくれました)嬉しい気持ちもありますが正直話すのが面倒で、どうせなら一人で食べたいです。
こんな人たちと話すくらいなら一人がいいと思ってしまいます。

なんで私は自ら泥沼に飛び込んだのだろう、毎回そう思います。
実際、私のクラス以外の全てのクラスに仲の良い友人がいます。
もうクラス替えはありません。
修学旅行もあるのに最悪です。

どうしたらこの気持ちのモヤモヤを無くせますか?
私は一人で2年間過ごせるのでしょうか?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういうあなたが自分というスマホの画面を相手にしている。

まず、その姿勢は素晴らしいです。
脱スマホ。
この記事を新聞にそのまま投稿したいくらいです。
大人たちだってみんなスマホスマホ。
さて、あなたはそれではいけないと感じました。
きちんとしたコミュニケーションをとりたいという事ですが、それは本当に大切なことです。
ちょっと、身近な例を一つあげてみましょう。
ラインである人からメッセージが入ってきました。
「何で来たの?」
(;´Д`)!!
え?わたしっ、行っちゃいけないのっ!?
嫌われてる?
たった五文字で硬直状態。
オマエなんか来るな。
そんな事を言われたら凹みますよね。
実は「何で来たの?」は交通手段を聞いていたのです。
電車?バス?チャリ?歩き?「なにで来たの?」を読み間違えて「なぜ・なんで」と呼んでしまい激凹みしていたとします。
誤解が晴れてスッとしました。
さて、この時、文字を見て凹んでいた人は誰を相手にしていたでしょうか?
はい。
自分です。
相手ではないものだからです。
仮にもし、相手が本当に嫌がらせメールを送ってきたとします。
「💀」
自分としかコミュニケーションをしていない人は、自分の妄想を相手にやりとりをします。
ここでちゃんとコミュニケーションができる人と、自分の妄想に縛られてできない人とに分かれます。
私はかつて修行道場でいじめにあったことがありましたが、当初は「自分の中のその人に対するイヤな気持ち」を相手にしていました。
最終的には「その人・本人」に反発をしてボッコボコにしました。
ちゃんとコミュニケーションが取れたのです。
黙らされて押し殺されていれば、それは本人に立ち向かっていないこと。
自分の中の相手への恐れを相手にしているだけなのです。
あなたは現在、自分の中のその人たちを相手にしていました。
直接本人のいない所で、本人ではないもの=自分のイメージや嫌悪感、残像を相手にしていたです。
彼ら彼女らがスマホを使ってやっていることは良くないことではありましょう。
ですが、そのスマホの先にいるのは「ニンゲン」なのです。
人間とウマくかかわっていくための彼女、彼らなりの姿勢なのでしょう。
あなたもさっきまで観て相手にして人は誰でしょうか。
自分というスマホのディスプレイに現われた相手は本人ではないものです。脳内データ・ファイルを相手にされていたのです。だって、本人そこに居ませんし。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼のコメントが遅れてしまい、申し訳ございません。
この度はご回答ありがとうございました。
私は、スマホを使っている人を悪だと決めつける自分を相手にしていたということだと、そう解釈致しました。
その通りだと感じました。
そういった人々が嫌いなのではなく、そう感じてしまう自分が嫌であったのだと思いました。
スマホでも、コミュニケーションはできます。
もっと良点を見て行動していけたらいいなと思いました。
本当にありがとうございました!

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