死に目に会える人会えない人
4月の終わり、父が亡くなりました。
入院していたもので前日の夕方息子と会いに行き『また来るから』と伝えて帰りまさか次の日の朝亡くなるなんて思いもしませんでした。
膀胱癌が見つかり詳しく検査を受けたらもう末期だと言われ手の施しようがないとのことで緩和ケアをして頂きました。
生前お酒のせいで散々迷惑をかけられて正直なところ死んでくれたら楽になるのに・・・と何度思ったか分からないほど憎んだこともある父でしたが、いざ死んでしまうと自分でも不思議なくらい悲しく、寂しいです。
今回も死に目に会えませんでしたが数年前大好きな祖母が他界した時も死に目には会えませんでした。
看取るということは辛いこととは分かっていますが伝えたいことも伝えられず死んでしまうなんて悲しすぎます。
死に目に会えないということは、どういう意味があるのでしょうか。
祖父、祖母、父ともに死に目に会えていません。
そのことで何か胸に引っかかるものがあり、もやもやしています。
49日を前に毎日祭壇に向かって『何も言わずに死んでしまって・・・』とつぶやいてしまいます。
深く考えない方が良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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一期一会
(失礼があってごめんなさい。当該部分を修正し、文字制限の為一部削除しました)
こんにちは。
お父様のご逝去に謹んでお悔やみを申し上げます。
死に目といいますと、テレビドラマを見ていると、いざ亡くなる時、家族全員がふとんの周りを囲み、死にそうな人が家族ひとりひとりに話しかけ、話し終えたところで「ガクッ」となるのを思い浮かべるかもしれません。
私の祖父母はすでに亡くなっていますが、全て死に目には会っていません。なので、本当の所はどうかわかりませんが、上記ドラマのような感じではなかったようです。また私は多くの亡くなった方のご遺族とお話をしていますが、上記ドラマのような亡くなり方をしたという話は聞いたことがありません。多くの方が、「寝ている間に、静かにスーッと」とおっしゃります。一方で「死に目に会えなかった」方が大多数です。死に目に会えない事は特別な事ではありません。
亡くなる瞬間に出会えなかったことは大変さびしい事だったと思います。でも「また来るから」の会話ができたことはあなたにとって大変重要で良かったことだと思います。これがあなたにとってお父様との「死に目」だったと思い、大切にしましょう。
一期一会(いちごいちえ)という言葉があります。仏教用語かと思っていましたが、茶道発祥の言葉のようですね。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くしなさいという事です。「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と戒める言葉です。(Wikipediaより抜粋)。私も「いってらっしゃい」「さようなら」「おやすみなさい」の時は、これで最後かもしれないという気持ちであいさつをするようにしています。
今まで身近な親族との死に目に会えなかったということに意味をもたせるとするならば、ご自身の死をもってこの「一期一会」の精神を伝えようとしたのかもしれません。あまり考えすぎませんよう。
これからはお仏壇に手を合わせて、お祖父さま、お祖母さま、お父さまと静かに会話をすると良いと思います。きっと気持ちが伝わります。
質問者からのお礼
お忙しい中、お返事をくださりありがとうございます。
私の質問の仕方が悪かったようです。
ドラマのような想像などしておりません。そっと息を引き取るときにそばにいれたらと思ってその気持ちが消えないので質問させて頂きました。
引用させて頂きます。
<例えば私には息子がいます。朝、登校していく時、必ず笑顔で「いってらっしゃい」と言います。もしかしたらこれが最後になるかもしれないと思って真剣にやります。つまり私がこのあと急に死んでしまうかもしれない、息子が事故に遭うかもしれない。昼間に大地震が来るかもしれない。だから、ケンカをせずに、気持ちよく送り出します。
↑私も全く同じことをしています。
あなたもこれからは「死に目になったら話そう聞こう」などともったいぶらずに
↑私のきき方が悪かったので仕方ないですが大変傷つきました。
時間を割いて下さったのに、この様なことを言い大変申し訳ございません。