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イライラの解消法

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有り難し有り難し 29

こんにちは、子育て中のイライラについてなんですが、今2歳1ヵ月の長男と1ヵ月の次男を育ててます。
長男は今イヤイヤ期の真っ最中で凄くヤンチャで毎日が大変です。
次男は生まれたばかりなので手がかかるのわ当たり前ですが、毎日、毎日凄くイライラしてしまいます。
イライラせず穏やかになりたいのに
自分でもビックリするくらいイライラします。
子供相手に大人げないな、と思いながらもイライラします。
気持ちに余裕が欲しいです。
どうしたら心穏やかになれますか?
子供はすぐ大きくなってしまうし
小さい間はあっという間に終わってしまうのに
自分が情けなくて涙がでます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事実に悪気はない

怒ったりイライラするのは人間がそこに意味を添えているからいけないのです。

「私が忙しい時に子供が何かをせがんでくる」
「私が何かをやっている時に私が思っていることと違う望ましい事が起こる。」
「ああ、私はこれをしたいのに」
「こうであってほしいのに」
そこで実際が自分の願っている理想ビジョンと違うことで怒るのでしょう。
つまり、前提として「わたし」「私目線」「私のルール」がそこに存在しているのです。
それはスマホの画面を横にしても回転しない様に"ロック"しているようなもの。
「なんでこうなの?」
「どうして、そんなことをするの?」
「ああ、腹が立つ」

そのモヤモヤしたところをよくみてください。
全部大人なのに子供っぽい理由で怒っていることに気づいて頂きたいのです。
「そもそも私がなぜこんなことで怒るようになってしまっているのか。」
原因がちゃんとあるのです。
それが無自覚の自己設定「マイルール」「マイ理想ビジョン」の子供への押しつけです。
過剰になると押しつけどころか圧政。暴君になって、毒親になるのです。
子供の行動の尊厳を尊重してあげてください。
子供は散らかすのが仕事です。
8歳くらいまでは何を言っても完全にいうことをきかないものだと思ってあげてください。
オトナは自分の年齢でもの言いをする。
こうしたほうがいい。
こうした方がイイ。
全部、自分が「私がこうした方が私の都合がイイ」という押しつけなのです。
それは愛でも教育でもなく命令に等しいもの。
20年後に親子の関係が崩れると心得て未来投資してください。
怒る必要がそもそも必要ない。
怒ることで幸せになれる人間など何処にもいないからです。
あなたが私から怒号を浴びせられたり、みなの前でコテンパンにコケ卸にされて誰が嬉しいでしょうか。
大人と言われる人たちの98%は誤解している。
「子供は怒ってい良いものである」と。
おろかしい教育の名残です。
今日から一切やめることです。
怒りが沸いたらそれはあなたの都合。
あなたが子供なだけなのだと心得ましょう。
私の目の前には子供たちが散らかしまくった人形、スリッパ、風船、オモチャが沢山転がっています。
全く問題になりません。
ただ、そこにそれがそうあるだけで、事実に悪気はありません。
何かあった時「事実に悪気はない」と思ってあなたの眠っている善意を引き出して下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

協力体制

こんにちは ご相談ありがとうございます。
私には現在小学校一年生になる娘が一人います。
進級時の今までもそうでしたが、最近も(一年生になったばかりというのもあるかと)学校に行きたくない行きたくないと言い出しております。

子供との一対一の対峙は、時として刺々しい人間の「我」の部分が出がちになります。いけないと思っていても子供に強く当たってしまう、そんな場面が増えてくると自分がいやになりますよね。そこで必要になるのが、自分以外の人の目線です。自分だけでは気付けなかった、自分だけで判断したからこうなった、そんな部分が、思いの外簡単に埋め合わせできるのが、他者の存在です。
少なくとも相談者様には、旦那様がおります。そして、お互いのご家族も少なからず取り巻いておられるはずです。お一人で抱え込まず、今感じている悩みや辛さを包み隠さず「そのまま」のパッケージで、周りの人達に相談してください。つぶさに語ってください。

相談者様の周りが如何様な人間関係なのかここでは察知できないところですが、人一人のキャパシティというのはそんなに大きくありません。精神的にも肉体的にも、どちらが始めになっても影響し合います。
ここに相談されたのを何かの縁だと思って、ここから先は「家族」という「チームプレイ」で、仕事に家事に子育てに奮闘していってください。

子育て、一緒に頑張りましょう(^o^)

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有り難し
おきもち

現代は実に「背負い込んでる」人が多いと思う。 別に自分が背負い込まなくても良いようなものまでも、率先して背負い込んでる。 で、結局悩んでる。自らの意志で背負い込んだのにね。 そこのあなた、身に覚えありでしょう? ほら、そうやって決めつけちゃうの、やめませんか? 立ち止まるのが早すぎやしませんか? 40代半ば愚僧の超個人的なボヤキだと思ってくだされば幸いです。 私の回答が誰かの人生の潤滑油になればうれしいな。 常にいろいろ勉強中!死ぬまで修行中!ここhasunohaも道場のひとつです! お付き合いのほど、よろしくお願いいたしますm(__)m

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ