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生きていていいのでしょうか

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有り難し有り難し 25

私は2ヶ月ほど付き合っていた彼に
DVを受けていました。
殴られるたびに過呼吸になり多くて1日4回も
なることがありました。
そしてやっと別れられたとき妊娠している事が
分かりました。

私は産みたいと母に伝えました。
ですが母は泣きながら反対しました。

結局 私は中絶することになりました。
1週間ほどして病院へ行きエコーを見せてもらった
のですが涙が止まりませんでした。

実際に目で見て改めてこの子は今必死に生きてる
と痛感したからです。

そして看護師さんによると手術中も麻酔で
眠っている私は泣いていたそうです。

手術後も麻酔が切れた瞬間に涙が止まらず
過呼吸になり精神安定剤を打たれました。

その後も自分は人殺しなんだ
生きてちゃいけないんだ
早くあの子の所へ行って謝らなくてはと思うように
なりました。

頑張ること前向きになることでさえ
申し訳ないのではないかと。

私は生きていていいのでしょうか?
赤ちゃんの気持ちが聞きたいです。
私はどうしたらいいのでしょうか。

彼からのDVでその時と似た状況に遭遇すると
今でも過呼吸になります。

両親も不仲で家の空気はいつも最悪。
居場所なんてありません。

中絶やDVとなると友達に話せるような内容
ではないですし両親に相談できる環境でも
ないのでいつもひとりで泣くことしかできません。

くっきり残っているリストカットの跡を
見るたびにあの時 死ねてたらなんて思います。

どうしたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「殺した」という言葉に深い意味を持ちすぎて殺されてはいけない

人間は男性ならば放っておいても体の中に存在している精子たちを知らずのうちに死滅させています。
女性にも卵子の排卵等で同様の事が言えると思います。
それにだって命はある訳です。
それは生理的な現象です。
わたくしがありませんから、自然に排出されてゆくものです。
命の授かりも、わたくしがありません。
授かれるという事は、無私の命の営みです。
もちろんそこに個人的感情があなたのように注がれることが深まれば深まる程、命への情愛が深まり、悲しくなったり、罪深さを感じるものです。
人は「殺す」という言葉に、陥ることがあります。
お米を食べる事、草を引き抜くこと、蚊をしとめる事。
これだって、悪しざまに言えば「殺す」事でしょう。
言葉を捨てて、事実を振りかえってみてください。
残酷なようでも、命の営みが、なるべくしてなるべく様な形になっていったのであります。
命を授かっても不幸になる人がいる。
命を授かれなくても不幸になる人がいる。
命を授かれても幸福になれる生き方がある。
命を授かれなくても幸福になれる生き方がある。
あなたは、今、物事や、自分のしたことを、責めたり、追認したり、悪しざまな、悪く言う思いを吹き付けているのです。
中絶は日本で一番多い死亡例でもあります。
それでも前を向いて生きている女性たちは沢山います。
命の重みは十分に受け止められました。
今日一日手を合わせて、新たな気持ちで生きていってください。
どうしても拭い去れなければ、地蔵様の縁日に水子供養をされるなどして、共に生きる道を選択してください。
人間は無私なる存在、すべての命は無私なる存在なのです。
そこにあまりにもわたくし的な意識を注ぎ過ぎることで、それがかえって苦しみの種となる場合があります。
あなたのお子さんでありながらも、無私なる命として、見送って供養してあげてください。
※これは質問者さま限定の救いの為のメッセージであり、他の方には適切な内容ではない場合がありますので、ご了承を願いたいと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私たちは生かされてます

思いを過去にとどめず、生きてください。過去に辛い経験がありました。中絶したことも事実です。しかし、あなたの思いとは関係なく、あなたも含め、身の回りのものは善悪無く、存在しています。それでいいのです。

ご自分を責めないでください。精神的に不安定な時期もあると思いますが、そこから抜け出し、幸せな未来を築くこともできるはずです。

すべてのことに善悪をつけず、生活してください。何かしようとしなくてもいのです。そのままの自分に気づいてください。

安心して生活できる存在であるのとに気づけます。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

私達の日常の生活の中には
たくさんの命があるということ。

もっと感謝して生きていこうと思いました。

そして私に大切なことをたくさん
教えてくれた赤ちゃんにも謝罪するだけでなく
感謝もしなくてはと思いました。

ありがとうございます。

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