「感情を感じること」と「物事を評価しないこと」
以前にも質問にお答え頂き、その節はありがとうございました。
hasunohaで日々仏教の教えを学ぶ中で、どう考えて良いものかわからない点がありますので、質問させてください。
私は今、うつ症状等ため精神科に通院しています。
その治療の一環として、カウンセリングも受けています。
その中で、臨床心理士より「感情を抑制していることが無気力や不安感に繋がっている」とのことを言われました。
感情を感じて表に現すことが、治療方法のひとつであると言われました。
私は確かに、自己犠牲的な考えや自分に自信がない部分があり、素直に自分の感情を出せるようになれたらいいなと思いました。
と同時に、仏教では、物事を評価しないでありのままを見ることが大事だと学び、それも確かにそうだなと思いました。
私にはどちらの考え方もとても納得のいくものなのですが、
自分の感情を感じることと、物事を評価しないことは両立し得るのでしょうか。
例えば、私が今寂しいと感じることは、評価していることになるのでしょうか。
仏教の教えでは、寂しいと感じてはいけないのでしょうか。
どのように考え、どう自分の心を扱えば良いのか、お教え頂ければ有難く存じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自身に気づくこと
たいへん興味深いご質問を頂いたと思い、有り難く感じています。
自分の感情を感じる(抑圧しない)ということですが、仏教では、基本的にそれを勧めていると思います。
つまり、例えば「ああ、私は彼女が近くにいないと寂しいと感じるんだなぁ」ということが、「ありのままの自分を認める」ということでしょう。もちろん、「現実に起きていることは何か」と問えば、「彼女がいないこと」であります。そこから例えば「彼女は私を憎んでいるんだ、嫌いなんだ」と理屈付けをすれば、それは「彼女を評価した」ことになります。これは仏教では「勝手なストーリーを付けなさんな」と戒められます。
一方、自分について掘り下げた場合はどうでしょう?
自身が寂しいことについて、「私は根暗だからだ」と考えるのは、評価したことになります。
一方、「私はそんなにも、彼女のことが大事なんだと知った」のであれば、これは気づきです。
これ、ちょっとした違いなのですが、どこに差があるか分かりますでしょうか。
「根暗」というのは、自分が昔からそうであり、今もそうであり、恐らく将来もそうであろう、という前提があります。一方後者は、「今の私」から離れていません。ここが仏教の押すところです。
もちろん、あなたがどちらの方向へ進むかは自由です。しかし、もし選べるならば、後者の方が幸せに繋がりそうに思いませんか?
ですから、まとめるならば、「自分の中に生起する感情を殺さず、しかし飽くまで現在の自分の姿として捉える」のが統合された答えではないでしょうか。
自分がそんなにも彼女のことを大事にしている、と自ら気づくことで、「では今度会った時は、とびきりの笑顔で迎えよう」といった、次の行動へ向かえるのではないかと思います。
一方、根暗路線はどうなるでしょうか。「昔、あんなことがあったから、私は何でも悲観的に捉えてしまうんだ。でも過去は変えられないし、性格だからなぁ」と、妄想の闇にさまようばかりです。
どちらを選ぶかは自分次第です。でもこれ、「考え方のクセ」ですから、お手軽に一回、試してはいかがですか?
感情と評価は別物でごんす
こんにちは。
「心が傷つかなくなるために善し悪しの判断を起こして感情的になって傷つく前に、私的判断・評価を加えず、その通りに物事を感受したままでいる(禅・坐)ことで、判断が介入されず、感情にも振り回されず苦しまずにすむので、そういう生き方するために仏教を学んで悟りを開きましょう会」の主催者の丹下ともうします。
毎週日曜3時から人類総成仏化計画として坐禅会を開いています。
「ものを見聞きして、感受する。」
これは万人の法則です。
見える聞こえる香る感じる…。
今も、あなたは、これをその通りに感受しています。判断は二の次、感情はその次。
感情というのは、瞬間沸騰ポットや笛付きケトルのようなもので普段は鎮まっています。
沸騰している時だけ、ぴー。
例 お天気 晴れ せっかくお出かけしようと思ったのに、
「哀ぴ~!」「あー!イライラぴ~!」
雨の日セールで安かった。
「超うれッぴー!」「楽ピー!」
それ以外は別に沸騰していません、笛もなっていません。(最近じゃ専ら電気ポット?)
今もあなたも感情が出ていない時は、ただ純粋に、感受、観る聴く、思う、分別、判断されていると思います。四六時中感情ばっかじゃ疲れます。
喜怒哀楽はあってよいのです。
仏教は感情否定論ではありません。
感情に支配されたり苦しんだりしないほうが良いというものです。
ですが感情は、瞬間沸騰的なものですから、思考や判断にそれが伴うと【危険】な面もあるという事です。
ああ寂しい…、会いたい…!も、西野カナレベルに到達すると「会いたくて震える!」レベルになります。
おそらく西野さんは実際にそうであってほしいのに現実が違うため思いとのギャップがあって震えるのです。(推測)
私もこんな回答ばかりしていますから、質問者から「会いたくて震える(殺意で・怒りで)」と熱烈ラブコールを受けており、写真を変え、本部からも言葉を慎むようにと厳重注意を受けて凹んでフトンの中でもっとパンチの効いた回答したくて震えています。(嘘)
機会が有れば、坐禅会にお越し頂き、どうぞこの和尚をタコ殴りにする勢いで、感情なり、クレームをぶつけてスッキリしてください。
「テメー、治らネーじゃねーかよー!」どうぞ、感情を抑圧せずに、うち明かしてスッキリして「さっさと帰りたくて震える」くらいになってください。
何も問題にしない生き方
寂しいと感じた時に寂しいと口にしたときに、楽になったり、解決できたりするのであれば、それも一つの方法かもしれません。
思いが出てきたときにその思いに手をつけず、そのままそっとしておく、というのが評価をしないということになります。こんなこと思ってはいけない。とか何も思わないようにしよう。なんてことはしません。そのままです。
ですから、楽に生きられるのです。我慢をすることとも違います。もっと根本的に問題にしない生き方をすることが仏道と言えるでしょう。
思いが出てきたときに、全て言葉にしていくと、時にその思いに苦しんだり、人を気づ付けたりすることもあるでしょう。「この人嫌いだなー」と思ったときに「あなた嫌い」なんて言えないでしょう。仏道は、この人嫌いとも思わない生き方です。それ以前のその人がそこにただいるだけです。
宇宙の実相は融合です
私たち僧侶が礼拝する大曼荼羅御本尊は宇宙といいますか、この世の中の真実の相を表します。
宇宙の相とは、世の中は常にそのままで完璧であり、もう既に全てが整っているという真理です。
他の言い方をしますと、宇宙の神仏の愛、無限の安らぎと豊かさが溢れているところであるということです。これを専門用語で輪円具足(りんねんぐそく)といいます。
私たちは五感、即ち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という小さな窓からしか世界を感識することができません。故にこの世界は様々な矛盾や葛藤、相剋や対立が充満する不調和な処です。
これが「感情を感じること」です。
しかし一度仏眼を開くことができれば、この宇宙はそのままでが完璧であり、調和していることに気づきます。
火と水、善と悪、生と死、理と智など対立の相を示しますが、その意味するところは宇宙の真実の相という観点に立てばこれらのものは対立などしていなくて、融合している。
これが「物事を評価しないこと」です。
寂しいと感じてはいけないではなくて、寂しいもうっとおしいも表裏一体の融合物であるとご理解ください。
質問者からのお礼
ご回答頂きまして、ありがとうございました。
感情を感じることと、評価することは違うということが良くわかりました。
邦元さま、赤澤さまがおっしゃるような、感情を超越したような状態こそが「悟った」ということなのでしょうか。
わたしのような凡人にはなかなか難しいですが、そういう状態を目指しつつも、佐藤さまがご教授してくださったような「考え方のクセ」を変えていくことから始めてみたいと思います。
「評価しない」ことは難しいことのように思っていましたが、丹下さまがおっしゃるように『感情が出ていない時は、ただ純粋に、感受、観る聴く、思う、分別、判断』しているのですね。
難しいことでも、できる時に、できる事から意識して心の平安を保てるようになれればいいなと思いました。
いつも有難い教えを頂けて、心から感謝しております。