こういう質問をするのはどうかと思いましたが・・・
朝早くすみません。おはようございます。
あのぉー、こういうことをいうのはどうだろうと思ったのですが。
言っていいですか?
もし、自分が死んだら無煙仏を選んだら駄目なのでしょうか?
親不孝ですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おまかせ。
恐れ入ります。
生まれ来るところを選ぶことが出来なかったように、
死もまた選べないものと存じます。
仰るように、親不孝してしまうこともあります。親よりも先立つということですね。
順番に死ぬ。是が一番です。
しかしそうはいかないのが、世の常。
あなた様のように、死後をお考えになることは、とても大切な事です。
しかし、例えばあなた様が死後をどなたかに御願いしたとします。
「むえんにしてほしい」という意志をお持ちであるわけで、それは
誰かに御願いしなければできないことです。
そう御願いした時点で、その後はあなた様の判断から離れます。
あなた様からお願いされた方が、あなた様のお骨なり灰なりを
食べようが山や海に蒔こうが、あなた様のせんたくではなくなります。
あなた様から死後をお願いされた方が、お墓をたてるかもしれません。
誰かがお願いされなければ、死後、むえんにはなれない、どうも矛盾しているようです。
最初から矛盾しているんですから、もはや死後は完全に「おまかせ」にしてしまって、
それまでは「死ぬまで生きる」に徹底して頂いたら如何かなと思います。
わたしだって、子供なり親戚なりが、神式、キリスト教式でお葬式をしますと言えば、
おぼうさんの手前、まあ、多少は抵抗するでしょうが(^ω^;)
お任せ致すところです。むしろ誰かが葬ってくれるだけでもありがたい。
当寺でも、友人が喪主を務めるという事が増えてきております。
「捨てておいてくれと言われたが、せめて人として送ってやりたい」
そう仰った喪主さんがおります。
小生にもそういう人が一人くらいはいると思って生きておりますので、あとは懸命に
務めるだけだと思っております。
合掌
生死を考えることは、とても大事なこと。
自分の死を考えてみるというのは、ちょっと寂しく恐怖もあるけれども、じゃ〜どう今を生き抜いたら良いのかを考えることですから。本当は、とても大事なことなんですよね◎
あなたの お礼の言葉を読みました。
病で、いろんなことを考え、自分を見つめてこられたのですね。誰だって不安になります。回りに心配をかけることだって、誰だってありますよ。それでも、受け入れてくれるのが、親 家族です。
例え、どんな、送られかたをしたとしても、往く世界は、同じなのですよ。ちゃんと、浄土へ参らせていただけるのですよ。真面目に生きれてない、迷いの心がある。。。大丈夫!如来の救いから、漏れることは ありませんよ。
身体は、もう大丈夫なのですか?無理せず、しっかり治療なさってくださいね。
ご両親に、笑顔を見せてあげて(*^^*)
無縁とは、無限の縁、無上の縁と読み取るべきである。
かおりさん、こんにちは。
寂しいこと言っちゃいけませんよ~♪。(^o^)
この世には実際に無縁、という方は存在しないそうです。
なぜなら、何ならかの「ご縁」が無ければ存在しないのですから、
「どうせわたしなんか(-_-;)」なんていう寂しい道を歩まないでください。
全てのものが互いに関わり合って、縁りて、縁り集いて存在しています。
この法則(諸法無我・縁起)はお釈迦様の悟り、お気づきでもあるのです。
かおりさんが、この世に誕生されたという事だって、先祖、父母、食べたもの多くの命を頂いて、無限の縁や関わりを頂戴しております。みんな温かい糸で関わり合って未来へ進んでいるのです。
ですから、我々人間が小さな物の見方で「無縁だ、無縁仏だ」などと思う事自体が、すでに謝ったものの見方でなのかも知れません。
私も埼玉なので、桜が咲いたよサイタまけん、の埼玉縁だってあるじゃないですか。(^-^)
病気をなされたことで家族との関わりで大変苦しまれて疎外感を感じておられたのかもしれませんね。私も病気で入院しましたが病気だって、これご縁なのです。
受け入れたくない縁、受け入れられる縁もあります。
ですが望むと望まざるとに関わらず、すでに大きな縁という宇宙の海の中で、小さな命を食べさせていただいたり、皆と関わりながら存在させて頂いているんだ、という気づきが、今まで冷たく感じられていた周りとのかかわりが、温かい関わりに変ってくると思います。
あなたは親に迷惑をかけた、お墓に入る資格は無いという冷たく感じられる縁の糸しか見えていないかもしれません。
ですが、その縁の糸は同時に、あなたは親から愛されている、愛されてきた、という縁の糸でもあるのです。手繰り寄せて、もう一度その縁の糸の温度をほほで感じ取ってみてください。きっと、温かな糸だってあるはずです。
今を生きる
かおりさま、おはようございます。
ご質問拝見いたしました。
浄土教では「倶会一処(くえいっしょ)」と申しまして、この世界を離れてのち、同じひとつの処で会うといわれます。
江戸末期以降、家系を保つ檀信徒制度が整備され、家が絶えるということや、墓の後継者がなくなる無縁墓にネガティブなイメージが強くなったのではないかと感じております。
私たちは元来、同じひとつの処からやって来て、やがて同じひとつの処へと回帰してゆくということを考えると、立派な墓碑といえ無縁墓といっても、この世界の一時の価値観でしかないという気もいたします。
親が望むのは、わが子の幸せに他なりません。今を懸命に生き、幸せになることが何よりもの親孝行といえるのではないでしょうか。
(我田引水になるやもしれませんが、後継者の心配のない、なおかつこの世界にお返しをしてゆく「森になる」という活動を始動いたしました。ご参考までにお知らせいたします。「森になる」⇒http://morininaru.jimdo.com/)
hasunohaは何でも聞ける場です (^_^)
かおりさん
おはようございます。
「無煙」ではなく「無縁」ですね (^_^;)
かおりさんは何故「無縁仏を選んだら駄目?」と思われたのでしょうか?
また「選ぶ」というのは、どういったお考えからでしょうか?
ちょっと話は変わりますが、私たち30歳代(私は39歳ですが)の祖父母世代の方々は、7〜8人兄弟、というのが珍しくありません。
そうすると、基本的には長男が家と墓を継いでくれるだろうし、たまたま子どもが居なくても兄弟の子ども(甥っ子)を養子として、後を継いでもらえます。
家の墓を継ぐ人が居ない、という事態は稀なことだったのだと思います。
しかし、親世代ですと4〜5人兄弟、私たちの世代ですと2〜3人兄弟、私たちの子ども世代は1〜2人と兄弟が減ってきていて、今までのように後につないでいくのは徐々に難しくなっていくものと思われます。
上記の通り、以前は稀なケースでしたので、無縁仏・無縁墓には悪いイメージがありました。しかし今後は、有縁墓・合同墓などと呼ばれ、それを選ぶ方も増えてくると思います。
ですので、無縁仏になるのが駄目、とも言えませんし、イコール親不孝とも言えないと、私は考えています。
いかがでしょうか。
どういう理由で無縁仏を選んだのか?
それによって話が大分変わってしまいます。
親に対する何か反抗、抵抗があってのことなのかなのか、
それとも自分で自立したい、他人の迷惑になりたくないなのか、
宗教的なものが嫌い、信じていないということなのか?
私は出家して世間を離れ親の面倒にはならない
と言うことで選ぶのではまた意味が違います。
それによって「親不孝」の度合いが変わってくると思います。
またその親子関係によって意見が異なるので何ともいえません。
この質問だけで親不孝か判断するのは難しいです。
死について考えることは良いことです。
かおりさん、死について色々考えることは良いことと思います。『無縁仏』は「身元不明の方が亡くなった時に設けるお墓や塔婆、位牌」であって、別に自ら進んでなるものではありません。
後、あなた以上に特別な理由で無縁になることはありますが、それは悪しき風習や差別で行われるもので軽々しく無縁仏を語るものではありません。
病気で家族に迷惑を掛けたなら、死んだあとのことをあなたが決めるものではありません。もっともっと親に迷惑を掛けましょう(笑)。「手のかかる子程、かわいいものは無い。」という諺がありますが、自分の人生を大切に思えば思うほど親から言わせれば迷惑。手のかかる子供なのです。親を気を付かせて生きてく子供は嬉しい反面、親としては辛い気持ちもあります。「あーこの子は私のために無理してるのかしら・・・。」
かおりさんがどんな病気で苦しんでいるのかは分かりました。恐らく、働くのも困難な状態なのかもしれません。後ろめたい気持ちもあるのではありませんか。
最近の人は生きることばかり考えて、死について考えることは空気読めない人、縁起が悪いなどと思われがちですが、違います。「エンディングノート」に代表されるように死について文章にして思いを描くことは夢を描くことと同じくらい大切なことです。家族とも1回でいいです。お盆が近いですからその時、話し合ってください。いきなり真剣に話すと引いてしまうので、軽い気持ちで話し、家族が真剣にな表情になってきたら自分の思いをぶつけましょう。
お墓に入るのに真面目に生きたとか。社会的貢献をしたとか。税金を納めたとか。一昔前の選挙権や高校推薦入試の内申書的なものはありません。それより、かおりさんの生き様を見せてください。お墓に入るかどうかはあなたが決めるのではなく、残された家族に決めてもらいましょう。私はもし菩提寺の和尚さんならかおりさんの家族に「是非とも家族と同じ墓にお骨を入れてください。仏壇に分骨したお骨をお供えして、納骨堂に納めるようにしてください。かおりさんと生活してきたものの責任ですから。」と言います。
あ!そうだ。菩提寺の住職さんとも時間の許す限り、死について、お墓について、色々話をしてみて下さい。これはお盆明け9月に入ったころが比較的時間も空いて余裕もありますので、話をするのもいいと思います。
よく考えて
かおり様へ
生きているうちに死について考える。
非常にすごいことをその年齢でされていると思います。
そしてそう考えることにつながったご縁もあったことでしょう。
なぜそう考えるのか、なぜそうしたいのか
その理由がはっきりしていれば今の時代、選択は自由であると思います。
ただ周りの残されていく方々ともよく考えて決定してください。
墓の件も同様であると考えます。合掌
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます。
私自身、何て言ったらいいのか分かりませんでした。(すみません)
無縁仏を選んだ理由は、以前病気をしたので多分また違う病気になるのではないかと言う不安です。
ちょっとここではいえないのですが、両親に迷惑をかけました。不安がらせました。
なので、もし、親より先に私が死んだら「○○家之墓」に入る義務はないと思ったからです。
散々人に迷惑をかけて生きていた人が死んだら墓に入れるの?と疑問に思います。
墓に入る人は、歯を食いしばって真面目に生きてきた人が入るべきだと思っております。
若しくは、好きな場所に骨を撒いて欲しいというのもあります。
登山が趣味ならば山に骨をまく。釣りやサーフィンが趣味ならば海へ骨を撒くというような感じで。
法律上無理かと思いますが。
中田さんへ、おはようございます。初めまして。アドバイスありがとうございます。
病気の方は、あと「目」だけです。なので、1ヶ月または2ヶ月に1回と眼科へ通院しています。
体力が全くないので、自分なりにウォーキングやジョギングをして体力をつけています。
昔の人は「食べ物にも感謝しなさい」といいます。「食べるものが少なくても食べられるだけ幸せだと思いなさい」とか「食べ物、太陽のおかげで今、自分が生きてるんだ」と。何事にも感謝しなさいと祖父母から学びました。感謝してます。ですが、やっぱり、ちゃんとお墓に入らないといけないのでしょうか?
お礼を書くのが遅れました。鈴木さん、ありがとうございました。
夕べ、夢の中に父方の祖父か祖父に似ているおじいさんが出てきました。
そのおじいさんは「時々、逢いに来て欲しかったな」と笑顔で言われました。私に対しての言葉なのか、
夢の中での会話なのかは分かりませんが、今でも覚えています。
私に対するメッセージならば、今年のお彼岸も墓参りに行かなかったので、来て欲しかったのかな?と少し反省もしています。