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親との将来が怖い

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50代後半の父母が認知症や病気になるのがとても恐ろしいです。
実際父母にそういった症状がでているわけではないのですが、
もし認知症になってしまったら…と考えると何もできなくなってしまい、その考えが頭から離れなくなってしまいます。
おそらく、認知症になって私や家族の事がわからなくなってしまうのが怖いのだと思うし、介護が出来る自信が全くありません。
親にこの不安を話して、気分を悪くさせてしまいました。
誰にもわからない将来の事を不安に思って、自分でもバカバカしいし、この歳になって何をやっているんだと呆れを感じています。
でも、どうしても不安で仕方がなく困っています。
どうか不安を軽減させるお力を貸していただけないでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

対処すればよい

そうなったとき考えればいい。
そうなったとき悩めばいい。
そうなったとき対処すればいい。
先の事は頭の中で思い起こされていることです。
現実にまだ起こっていないことです。
現実に起こっていない物事を相手にしているから、脳が矛盾を起こして不安になっているのです。本当相手にするべきは、ただ今なのです。
それが分かれば不安は無くなります。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

介護は一人でしなくていい

介護が必要になった場合には、介護保険のサービスなど、福祉サービスを利用できます。
ですから、何もかも一人で背負い込む必要はありません。
少子化社会ですから、国レベルで、あなたのような人を助けるシステムが構築されています。
ですから、あまり心配しないで、
今は、何かわからないことがあったら地域の役所に相談すればいい、とだけ覚えておけばよいです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

私の祖父も晩年は認知症で、調子の悪い時は自分が住職したお寺を見ながら「早くウチのお寺に帰ろう」と言ったそうです。

最後の半年間は特に辛かったですね。その頃になると祖父は認知症を通り過ぎて寝たきり状態でした。そして私は寮に入っていまして、数週間おきにお寺に帰る生活でした。それが辛くてですねぇ〜…毎日見ていればまた違ったのでしょう。しかし数週間おきに祖父の顔を見ると、目に見えてやつれていくのですよ…

私は迫り来る別れを感じ、気が重くなり、帰りたくなくなりました。ある日、祖母はそれを見越したかのように私にこう言いました。「大慈ちゃん(←ここでは仮に)を見ると、おじいちゃん、元気が出るみたいなんよ。できるだけ顔を見せてあげて。」私はそんなわけあるかと思い、言い返します。「おじいちゃん、もう父さんのことも分かってるかどうかアヤシイんでしょ?僕が話しかけたって少し目を開けるだけで、ほとんど反応ないじゃない。分かってないんじゃないの?」「うん、分かっとらんのかもしれんね…でも、大慈ちゃんが来た日は、おじいちゃんよく動くんよ。」

私はその言葉がとても嬉しかったのです。涙が止まらないほど嬉しかった。それ以来、私は祖父が亡くなるまで週末には必ずお寺に帰り、笑顔で祖父に挨拶をするようにしました。一緒に生きた時間は決して無くなりはしませんし、無駄にもなりません。このことをよくよく心得て下さい。

やよい様のご心配はよくよく分かるつもりです。ですが、認知症の中にも喜びはあるのですよ?老いは人生の1つのステージであり、長生できれば誰もが通る道です。今から悪いことばかりだと決めつけたら、老いの中の楽しいこと嬉しいことを受け入れられなくなってしまうじゃないですか。それじゃあ将来、そういう時が来たとしてご両親が浮かばれない。よくよく覚えておいてください。たとえ認知症の中でも嬉しい時は喜んでいいし、楽しい時は楽しんでいいのです。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

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