hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

神様、というようなものを信じてみたいです。

回答数回答 6
有り難し有り難し 123

仏教でなくてもいいんだけれど、なんらかの信心を持ちたい、と思い質問させていただきます。最近キリスト教のミサに行ったり、モスクに行って礼拝を見学させてもらったりしましたが、どうにも信じる気持ちというものが芽生えません。

私は学校卒業と同時に家を出て、その後家族とはほぼ交流がありません。水商売をしていましたが、金に困り、やむなく今月から風俗業をしています。

こんなことになったのも自業自得だなあと思い、ふと気になって自業自得の意味を調べたら、仏教の言葉だということで、興味を持ちました。

私は、善悪の区別がつかないのではと思い、不安です。お世話になった人をなんの理由もなく音信不通にし、ばれなさそうな嘘なら意味もなくつき、人の陰口もすぐに同調し、それらのことに特に胸が痛みません。自分の立場が危うくなったら嫌だな、くらいです。
社会的な義務を何一つ果たさず、当然年金も未払いです。
とにかく自分が信頼できないので、バイト先には、私が頂く給料のほかは私に店のお金を一切触らせないでほしいとお願いしています。生涯運転はしないと決めています。

風俗業とはいえ、まだ人生を台無しにするような、決定的な罪は犯していないはずです。
しかし、私自身の倫理観のなさが、いつか決定的な罪を招きそうで、「信心」があれば変わるのではと思ったのです。

しかしながら、どうも難しいのです。
祈る=決まった文句を唱えることの安心感
などと解釈し共感することはぎりぎりできるのですが、それを仏や神のために、となるともうさっぱりです。

どんな神経で信じてるんだ?というのが本音です。
それこそ預言者の人のように、声を聞いたとか見たとかがあれば違うのでしょうけれど、そうでない人は、なぜ、なんのきっかけで、信じたのでしょう。
というより、本当に信じているのですか?
教義に共感しているだけですか?
今を良く生きるための便宜に、来世とか地獄を想定しているのですか?

共感できそうな宗教を探すなら、それはそもそも自分で全部考えることと何ら変わらないのではないでしょうか。
信者の方は、来世とか地獄とか長いスパンでの「自分の立場」を心配している、今小さな嘘をばれないでほしいと願う私となんら変わらないのではとも思いはじめました。

既に反抗的なことを書いてしまいましたが、
本当に信じたいのです。
どうしたらいいのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

『信じる』ということ。

ご質問読ませていただきました。

私の『信心』について少しお話させていただきます。

私は阿弥陀如来という仏様に一切合切おまかせします。という南無阿弥陀仏のお念仏を信じています。

信じている。
と言ってもそれはそれはお粗末な信心です。
吹けば飛ぶような信心です。
恥ずかしながら。

日によってコロコロ変わる心に振り回される毎日でもあります。

でも、
人間ってそうじゃないですか?
自分さえあてにならないじゃないですか?
自分の心さえ思いどおりに管理できないじゃないですか?

南無阿弥陀仏のお念仏を説かれた法然というお方はこうおっしゃっています。

『疑いながらも念仏すれば往生す』

疑いながらでもいい、疑いながらでも南無阿弥陀仏と阿弥陀さまの名前を呼べば、子に名を呼ばれた親の如く決して見捨てられることはない。

ということです。

信ずることさえ、ままならん私である。ということさえお見通しであるということです。

私たち人間のお粗末な自力の信心などあてにしておられない存在を
『神様』『仏様』であると理解していただきたいのです。

私は、
なかなかに信じきることのできないお粗末な私であろうと、『かまへん』
『最初からおまえの信心みたいなん当てにしてへんぞ』『とりあえずそんなことより我が名を呼ばんかい』
と阿弥陀さまは見守ってくれてはる。
と『信じて』います。

最後に
法然さんはこうもおっしゃっています。

疑いながらも念仏していく中に、自ずから『信心』が養われていくと。

{{count}}
有り難し
おきもち

生きるための仏教 生身の私達のための仏教 私たちが人生を歩む上...
このお坊さんを応援する

心身は常に前の事をとどめていない。

そういうものなら私も信じられません。
私が学んだ仏教とは、自分の身が自分の身でありながら「わたし」という意識が無くなっていくという所に故人たちが神仏と呼び、崇めてきたものを見出して、自分自身のダークな人生のすべてから救われたから、こうしてそれを誤解無く、その真意を伝えようとしている者です。
信仰とは、正しい理解。
ちゃんと救われるという内容が無ければ誰も信じません。
盲目的にお経読んでりゃOKというような所もあるのかもしれませんし、やみくもに読んでいるだけで空想上のイメージボトケを想像してそれで満たされている程度の人もいることはいるでしょう。
ところが、あなたも私もそういうもんじゃ救われないのです。
もっと、まともな、本当の神仏を説ける人はおらんのかいな、と思うはずです。
私もパンク僧侶でしたから嘘くさい坊さんの説法ではいつも寝ていました。
昔読んだ仏教マンガにアームラパーリ―という遊女がお釈迦様の教えを聞いた途端身に着けている宝石が色あせたという話が乗っていました。
q(-。-)pふん、バカバカしい。そんなことある訳ねーっつの。

(;゚Д゚)…ありました。
井上貫道老師という方のお話を聞いた時にそれは起きました。
やっと、マトモなことを言ってくれる坊さんに出会えた。
今までは修行道場で合掌礼拝エクササイズをしていただけの無信仰の私がはじめて手が合わさる人に出会えたのです。
そういう方の話を生で聞いてみることです。
都内でしたら、恵比寿の福昌寺というお寺に毎月一回静岡から曹洞宗の無冠の法王様がお話に参ります。私はその方の話を聞いた時に、今まで自分が価値があると思っていたもののすべてが灰色になった「ような」感覚を体験しました。
真実の仏法を前にすると、そういうことはある。
・自分は元々ものや環境と一体である。一念がそこに生じない時には、人間は安楽である。
・ものに対して、一念の生じないままにそれを見ている時には、傷つく事が起こらない。
・一切のものには人間の見解がついてないい。
・この身を「わたし」だと思っているのが人間ですが、これをみている時に目玉はありながら忘れています。耳がありながら忘れていたでしょう。私が私、あなたがあなたでありながら「わたし」ということ無しにこれを読んでいたでしょう。
あれこれ、ものに意味をつける前のものとは「どうなって」いるでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

高評価計測不能

むか〜しむかし、とあるお寺の料理長和尚さんがお粥を作ってました。そしたらお粥の鍋の上にモヤモヤモヤっと仏さまが現れました。それを見るやいなや、和尚さんは仏さまをブン殴りました。めでたしめでたし。

これが禅です。超常現象とか神秘体験とか運命とか、そーゆーのはノーセンキュー。

じゃあ仏教って何よ?お釈迦さまは言いました。
「あらゆるものには原因と結果がある。原因と結果の網の目の繋がりによって、この世界は成り立っている。私たちもこの網の目の1つ。そうであるなら、私という結果に繋がる原因1つ1つを大切にしていかないと、自分を大切にすることはできない。だから本当に賢い生き方とは、自己中にふるまうことではなく、他者を大切にすることである。」

これが仏教です。信ずる者は救われるなんて言っとりゃしません。

じゃあお坊さんは何をしとるか?自分という端末に仏教流の善悪OSをインストールしとるんです。んで時々、自己中エラーチェックをしたりパッチやアプデをダウンロードしとるんです。そのために読経したり色々してるわけです。
だからお祈りしたりするのも自分のためですよ。ただし、他者のためを先にしないと、自分も救われようがない…そういう話では、あるんだな。

もっと言えば、ワタシャ信じちゃおりませんよ。不思議だから仏さまの足跡を追跡しとるんです。この先はどうなってるんだろう…仏の立場まで追いかけて行って、仏の目線で世界を見たらどう見えるんだろう…って。それを見たいから、背中を追いかけるんです。その先がきっと素晴らしいハズだ!という意味では信じてますけどね。

だってさ、仏教は2500年間、インド・中国・日本にわたって厳選され続け、なお信じられているんですよ?Amazonのたかだか数十数百とは異次元の量の高評価が付いてるんです。やってみなきゃ損でしょ?神格化された聖人の言葉ではなく、どんな桁になるか想像もつかない高評価。そこに胡散臭く思う余地は無いでしょと私は思うんです。

最後に、どうすれば良いか?お坊さん流の善悪パッチをダウンロードしましょう。そのためにはお坊さんから学ぶことです。hasunoha読みあさってもオッケー。質問すればなお良し。実際に会って学べばさらに良し。これを仏教では聞法(もんぽう)といいます。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

仏様を信じてみませんか?

仏様を信じてみませんか?
仏様といってもたくさんいますが、先ずは有名なところで、お釈迦様を信じてみませんか?
お釈迦様は今から2500年前にインド北部に生まれた実在の人です。釈迦牟尼仏、シャカ、ブッダ、釈尊、尊者などとも呼ばれます。
お釈迦様を信じるとは、お釈迦様の教えを信じることです。

お釈迦様の教えとは、たくさんあるのですが、例えば「自分の考えを頼りに生きなさい。この世の法則を頼りに生きなさい。」と言われました。
あなたが今まで得てきた知識や経験、更にあたの周りの人の意見も参考にして、よく自分自身で考えて行動しなさい。また、その時はこの世の法則についても考えなさい。
この世の法則とは、例えば因果応報、つまり、結果には必ず原因があるということ。自分の求める結果を得るためには、その結果に繋がるであろういくつかの原因をよく考えて見つけて成し遂げなさい、ということです。

あなたは言ってますね。
教義に共感しているのか?
そう、共感しているのです。お釈迦様の教えは正しいと思うから信じているのです。それに、お釈迦様は共感できない(正しくない判断した)教えは捨ててよいとまで言われたのです。ですから、全てを信じなくてもいいのです。

自分で考えるのと変わらない?
その通りなのです。自分で考えることが仏教なのです。それがお釈迦様の教えなのです。自分でよく考えなさいと弟子にもよく言っていたのです。
なんだかお釈迦様が身近に感じませんか?
信頼できそうな仏様に思えませんか?

ちなみに私は阿弥陀仏も信じています。
南無阿弥陀仏と一言でも唱えると死後に極楽浄土に連れていって、私達が仏になれるまで指導してくれるのです。
お釈迦様と印象が随分ちがいますね。
なのになぜ信じるのか?
それは、私は生意気にも仏になりたいのですが、恥ずかしい話、この世ではお釈迦様のように修行して仏の境地になれそうにないからなのです。私の愚かさ、家族への執着、意思の弱さなどなどのゆえに。なので、残された最後の手段として阿弥陀仏に頼るのです。どうかお願いしますと。
浄土宗ではお釈迦様と阿弥陀様を二尊(二人の尊者)といって大切に敬っているのです。

なお、もし今すぐでなくても可能でしたら、心と体をもう少し大切にできる仕事に転職してくださいね。
また、善悪の判断に迷ったら、ハスノハに相談してくださいね。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

必ず通る道の途中

えみこ様

初めまして、釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。

総じて、非常に素晴らしいと感じました。

私などよりもよほど、えみこ様は「信」を頂くのに必要な下地が十分に出来上がりつつある状態に思えます。
何よりも難しいことは、自身を厳しく見つめ、更に難しいことは、それを包み隠さず、また脚色して自分を良く見せようとせず、ありのままを自覚することかと思います。

えみこ様は、それが出来ている状態かと思います。

信とは何でしょうか。

えみこ様のお宅に、明日急に布団屋さんが来て、本来60万円する高級羽布団を今回に限り、30万円で如何でしょうか?と言われたら、どうでしょうか。

たまたま、えみこ様は、布団が欲しかったとしてください。

まじでか、めちゃラッキーやん!と、買いますか?

恐らく買いませんね。

仮に欲しいなと思ったとしても、まずどうします?
名刺かチラシかだけ貰って、即効でググるでしょう。
怪しくないか。また値段は適正か、本物か。

調べて調べて調べ倒して、本物だ、そして本当に安い、と分かったらどうしましょう。

名刺を見て、電話しますね。

さっきの布団、、と、

疑って→確認して→納得して→信じた

これは、信と言えるかと言うと、違うと思うんです。

どうしましょうか、
もう一つ言いましょうか。

知らない人から携帯に電話があって、
まず、出ないでしょうけど、仮に出たとして、
「あ、悪いけど急ぎの用で、どうしても今から言う場所まで来て欲しい。家を出て東に行った二つ目の信号を曲がって、タバコ屋の路地入ってきて、大事な知らせがあるから」と言われたら。どうしましょうか。

すぐ切るでしょう笑
絶対行きませんね。
とりあえずヤバいやつやということは分かります。

しかし、同じ内容で、電話の相手がお母さんだったらどうしましょう。

これは行きますね。
すぐ行きますね。

大体ご婦人に言うと、相手が母なら行くけど、ご主人なら行かないと言われます笑

これが、信ですよ。
これは、自分ですることではなくて、賜るものです。

これがある慶び、安心は尋常ではありません。

浄土宗さんのご本山、知恩院に以前お参りをさせて頂いたとき、門前にこのような法語がありました。

「我が信の無きことを恥ずべき」

法然聖人、いわゆる法然坊源空様という大変な高僧のお言葉です。

{{count}}
有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派です。 有髪に非僧非俗、 肉食妻帯(現在は独身ですが)...
このお坊さんを応援する

悩み苦しみの原因は煩悩だと信じてください

仏教は、色んな宗派がありますがどれも、
悩み苦しみの原因を消したり制御したりして、
悩み苦しみを消したり制御したりする教えです。
悩み苦しみの原因、それは心の中の煩悩です。
たとえば、欲・怒り・怠け・プライドなどが煩悩です。
いきなり煩悩を消すのは無理ですよね。
まずは、日常生活の中で、自分の心に浮かんでは消えていく 欲・怒り・怠け・プライド に気付くようにしてください。
そうすれば少しずつ、欲・怒り・怠け・プライドをコントロールできるようになります。
煩悩をコントロールできると、日常生活の悩み苦しみやストレスをコントロールできるのです。
そのような、煩悩と悩み苦しみの因果関係を信じてみてはどうでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

「神社・神様」問答一覧

神を信じられなくなって辛い。

カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。 数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 38
回答数回答 3

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

神を信じられなくなってしまいました辛い。

カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

稲荷信仰の宗教学民俗学的知見を求めてます

 最近、狐に呼ばれているような気がします。稲荷神社に参る必要性を感じているのですが、どこの稲荷神社に行けばよいのかわかりません。  20歳の時に初めて参り強く心惹かれ、なんとなく購入してきた狐のぬいぐるみを会社に居る間ずっとお世話させていただいていた京都の伏見稲荷大社が筆頭ですが、子供の頃に毎日通っていた千駄木の満足稲荷、今は両親の離婚に伴い縁のない実父の家が代々氏子を務める根津の根津神社内の乙女稲荷、生まれた病院の隣の湯島の花姫稲荷にも縁があります。現実問題として現住所が東京であるため、伏見稲荷大社以外でも失礼にあたらないのであれば、そちらに参りたくもあります。  また、昨年は自殺を考えるまで思い詰めたいた時期もあったのですが、その際に縁もゆかりもなかった女性に救われました。その方とは今は連絡が取れないのですが、不思議な人で、どうも今を思うと言動の節々や所作から、狐だったような気がしてなりません。ただ、この方は仏教系の荼枳尼天に近い気もしており、そうなると仏教系の豊川稲荷に行くべきかもしれません。  祀るにあたってリスクがあると言われる稲荷神ではありますが、それだけに失礼のないよう調査しており、また、この機会に一生祀る覚悟もあります。そうでなくとも、召喚には応ずるべきですし、もしも本当に自殺の間際から救ってくださったのがお狐様であるなら、お礼は言うべきだと強く感じています。故に、気軽に選択できずにいろいろ調べている現状です。  神仏には何かを求めるものではなく、あくまで個人の努力を応援してくださる存在として、私個人の思想と行動を中心に考えるべきということも重々承知しており、現実的な偶然を神秘的な問題と混同する危うさも理解しています。しかし、今回は、なんとなく重要な問題のような気がするので、心の問題というよりも、宗教学・民俗学的問題としての情報を求めています。  稲荷神の分霊に関して、総本宮である伏見・豊川の祭神と、それ以外の全国の稲荷神社の祭神は、神道系仏教系の同カテゴリの稲荷であればそれぞれが等しくどこからでもアクセスできるのか、派遣され憑いてくださるという眷属に関してはどのようなシステムで運営されているのか、全国の稲荷神社に参拝して信心を納めても良いものなのか、宗教学・民俗学に詳しい方がおられましたら、回答もしくは書籍の紹介いただけると幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ