神様、というようなものを信じてみたいです。
仏教でなくてもいいんだけれど、なんらかの信心を持ちたい、と思い質問させていただきます。最近キリスト教のミサに行ったり、モスクに行って礼拝を見学させてもらったりしましたが、どうにも信じる気持ちというものが芽生えません。
私は学校卒業と同時に家を出て、その後家族とはほぼ交流がありません。水商売をしていましたが、金に困り、やむなく今月から風俗業をしています。
こんなことになったのも自業自得だなあと思い、ふと気になって自業自得の意味を調べたら、仏教の言葉だということで、興味を持ちました。
私は、善悪の区別がつかないのではと思い、不安です。お世話になった人をなんの理由もなく音信不通にし、ばれなさそうな嘘なら意味もなくつき、人の陰口もすぐに同調し、それらのことに特に胸が痛みません。自分の立場が危うくなったら嫌だな、くらいです。
社会的な義務を何一つ果たさず、当然年金も未払いです。
とにかく自分が信頼できないので、バイト先には、私が頂く給料のほかは私に店のお金を一切触らせないでほしいとお願いしています。生涯運転はしないと決めています。
風俗業とはいえ、まだ人生を台無しにするような、決定的な罪は犯していないはずです。
しかし、私自身の倫理観のなさが、いつか決定的な罪を招きそうで、「信心」があれば変わるのではと思ったのです。
しかしながら、どうも難しいのです。
祈る=決まった文句を唱えることの安心感
などと解釈し共感することはぎりぎりできるのですが、それを仏や神のために、となるともうさっぱりです。
どんな神経で信じてるんだ?というのが本音です。
それこそ預言者の人のように、声を聞いたとか見たとかがあれば違うのでしょうけれど、そうでない人は、なぜ、なんのきっかけで、信じたのでしょう。
というより、本当に信じているのですか?
教義に共感しているだけですか?
今を良く生きるための便宜に、来世とか地獄を想定しているのですか?
共感できそうな宗教を探すなら、それはそもそも自分で全部考えることと何ら変わらないのではないでしょうか。
信者の方は、来世とか地獄とか長いスパンでの「自分の立場」を心配している、今小さな嘘をばれないでほしいと願う私となんら変わらないのではとも思いはじめました。
既に反抗的なことを書いてしまいましたが、
本当に信じたいのです。
どうしたらいいのでしょうか。
善悪の判断がつかないのではと思う。人の不幸を笑い、身近な人の幸せを祝福できず、すぐに都合良く嘘をつく。男の人が苦手で、そのせいか特に見下してしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『信じる』ということ。
ご質問読ませていただきました。
私の『信心』について少しお話させていただきます。
私は阿弥陀如来という仏様に一切合切おまかせします。という南無阿弥陀仏のお念仏を信じています。
信じている。
と言ってもそれはそれはお粗末な信心です。
吹けば飛ぶような信心です。
恥ずかしながら。
日によってコロコロ変わる心に振り回される毎日でもあります。
でも、
人間ってそうじゃないですか?
自分さえあてにならないじゃないですか?
自分の心さえ思いどおりに管理できないじゃないですか?
南無阿弥陀仏のお念仏を説かれた法然というお方はこうおっしゃっています。
『疑いながらも念仏すれば往生す』
疑いながらでもいい、疑いながらでも南無阿弥陀仏と阿弥陀さまの名前を呼べば、子に名を呼ばれた親の如く決して見捨てられることはない。
ということです。
信ずることさえ、ままならん私である。ということさえお見通しであるということです。
私たち人間のお粗末な自力の信心などあてにしておられない存在を
『神様』『仏様』であると理解していただきたいのです。
私は、
なかなかに信じきることのできないお粗末な私であろうと、『かまへん』
『最初からおまえの信心みたいなん当てにしてへんぞ』『とりあえずそんなことより我が名を呼ばんかい』
と阿弥陀さまは見守ってくれてはる。
と『信じて』います。
最後に
法然さんはこうもおっしゃっています。
疑いながらも念仏していく中に、自ずから『信心』が養われていくと。
心身は常に前の事をとどめていない。
そういうものなら私も信じられません。
私が学んだ仏教とは、自分の身が自分の身でありながら「わたし」という意識が無くなっていくという所に故人たちが神仏と呼び、崇めてきたものを見出して、自分自身のダークな人生のすべてから救われたから、こうしてそれを誤解無く、その真意を伝えようとしている者です。
信仰とは、正しい理解。
ちゃんと救われるという内容が無ければ誰も信じません。
盲目的にお経読んでりゃOKというような所もあるのかもしれませんし、やみくもに読んでいるだけで空想上のイメージボトケを想像してそれで満たされている程度の人もいることはいるでしょう。
ところが、あなたも私もそういうもんじゃ救われないのです。
もっと、まともな、本当の神仏を説ける人はおらんのかいな、と思うはずです。
私もパンク僧侶でしたから嘘くさい坊さんの説法ではいつも寝ていました。
昔読んだ仏教マンガにアームラパーリ―という遊女がお釈迦様の教えを聞いた途端身に着けている宝石が色あせたという話が乗っていました。
q(-。-)pふん、バカバカしい。そんなことある訳ねーっつの。
(;゚Д゚)…ありました。
井上貫道老師という方のお話を聞いた時にそれは起きました。
やっと、マトモなことを言ってくれる坊さんに出会えた。
今までは修行道場で合掌礼拝エクササイズをしていただけの無信仰の私がはじめて手が合わさる人に出会えたのです。
そういう方の話を生で聞いてみることです。
都内でしたら、恵比寿の福昌寺というお寺に毎月一回静岡から曹洞宗の無冠の法王様がお話に参ります。私はその方の話を聞いた時に、今まで自分が価値があると思っていたもののすべてが灰色になった「ような」感覚を体験しました。
真実の仏法を前にすると、そういうことはある。
・自分は元々ものや環境と一体である。一念がそこに生じない時には、人間は安楽である。
・ものに対して、一念の生じないままにそれを見ている時には、傷つく事が起こらない。
・一切のものには人間の見解がついてないい。
・この身を「わたし」だと思っているのが人間ですが、これをみている時に目玉はありながら忘れています。耳がありながら忘れていたでしょう。私が私、あなたがあなたでありながら「わたし」ということ無しにこれを読んでいたでしょう。
あれこれ、ものに意味をつける前のものとは「どうなって」いるでしょうか。
高評価計測不能
むか〜しむかし、とあるお寺の料理長和尚さんがお粥を作ってました。そしたらお粥の鍋の上にモヤモヤモヤっと仏さまが現れました。それを見るやいなや、和尚さんは仏さまをブン殴りました。めでたしめでたし。
これが禅です。超常現象とか神秘体験とか運命とか、そーゆーのはノーセンキュー。
じゃあ仏教って何よ?お釈迦さまは言いました。
「あらゆるものには原因と結果がある。原因と結果の網の目の繋がりによって、この世界は成り立っている。私たちもこの網の目の1つ。そうであるなら、私という結果に繋がる原因1つ1つを大切にしていかないと、自分を大切にすることはできない。だから本当に賢い生き方とは、自己中にふるまうことではなく、他者を大切にすることである。」
これが仏教です。信ずる者は救われるなんて言っとりゃしません。
じゃあお坊さんは何をしとるか?自分という端末に仏教流の善悪OSをインストールしとるんです。んで時々、自己中エラーチェックをしたりパッチやアプデをダウンロードしとるんです。そのために読経したり色々してるわけです。
だからお祈りしたりするのも自分のためですよ。ただし、他者のためを先にしないと、自分も救われようがない…そういう話では、あるんだな。
もっと言えば、ワタシャ信じちゃおりませんよ。不思議だから仏さまの足跡を追跡しとるんです。この先はどうなってるんだろう…仏の立場まで追いかけて行って、仏の目線で世界を見たらどう見えるんだろう…って。それを見たいから、背中を追いかけるんです。その先がきっと素晴らしいハズだ!という意味では信じてますけどね。
だってさ、仏教は2500年間、インド・中国・日本にわたって厳選され続け、なお信じられているんですよ?Amazonのたかだか数十数百とは異次元の量の高評価が付いてるんです。やってみなきゃ損でしょ?神格化された聖人の言葉ではなく、どんな桁になるか想像もつかない高評価。そこに胡散臭く思う余地は無いでしょと私は思うんです。
最後に、どうすれば良いか?お坊さん流の善悪パッチをダウンロードしましょう。そのためにはお坊さんから学ぶことです。hasunoha読みあさってもオッケー。質問すればなお良し。実際に会って学べばさらに良し。これを仏教では聞法(もんぽう)といいます。
仏様を信じてみませんか?
仏様を信じてみませんか?
仏様といってもたくさんいますが、先ずは有名なところで、お釈迦様を信じてみませんか?
お釈迦様は今から2500年前にインド北部に生まれた実在の人です。釈迦牟尼仏、シャカ、ブッダ、釈尊、尊者などとも呼ばれます。
お釈迦様を信じるとは、お釈迦様の教えを信じることです。
お釈迦様の教えとは、たくさんあるのですが、例えば「自分の考えを頼りに生きなさい。この世の法則を頼りに生きなさい。」と言われました。
あなたが今まで得てきた知識や経験、更にあたの周りの人の意見も参考にして、よく自分自身で考えて行動しなさい。また、その時はこの世の法則についても考えなさい。
この世の法則とは、例えば因果応報、つまり、結果には必ず原因があるということ。自分の求める結果を得るためには、その結果に繋がるであろういくつかの原因をよく考えて見つけて成し遂げなさい、ということです。
あなたは言ってますね。
教義に共感しているのか?
そう、共感しているのです。お釈迦様の教えは正しいと思うから信じているのです。それに、お釈迦様は共感できない(正しくない判断した)教えは捨ててよいとまで言われたのです。ですから、全てを信じなくてもいいのです。
自分で考えるのと変わらない?
その通りなのです。自分で考えることが仏教なのです。それがお釈迦様の教えなのです。自分でよく考えなさいと弟子にもよく言っていたのです。
なんだかお釈迦様が身近に感じませんか?
信頼できそうな仏様に思えませんか?
ちなみに私は阿弥陀仏も信じています。
南無阿弥陀仏と一言でも唱えると死後に極楽浄土に連れていって、私達が仏になれるまで指導してくれるのです。
お釈迦様と印象が随分ちがいますね。
なのになぜ信じるのか?
それは、私は生意気にも仏になりたいのですが、恥ずかしい話、この世ではお釈迦様のように修行して仏の境地になれそうにないからなのです。私の愚かさ、家族への執着、意思の弱さなどなどのゆえに。なので、残された最後の手段として阿弥陀仏に頼るのです。どうかお願いしますと。
浄土宗ではお釈迦様と阿弥陀様を二尊(二人の尊者)といって大切に敬っているのです。
なお、もし今すぐでなくても可能でしたら、心と体をもう少し大切にできる仕事に転職してくださいね。
また、善悪の判断に迷ったら、ハスノハに相談してくださいね。
必ず通る道の途中
えみこ様
初めまして、釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。
総じて、非常に素晴らしいと感じました。
私などよりもよほど、えみこ様は「信」を頂くのに必要な下地が十分に出来上がりつつある状態に思えます。
何よりも難しいことは、自身を厳しく見つめ、更に難しいことは、それを包み隠さず、また脚色して自分を良く見せようとせず、ありのままを自覚することかと思います。
えみこ様は、それが出来ている状態かと思います。
信とは何でしょうか。
えみこ様のお宅に、明日急に布団屋さんが来て、本来60万円する高級羽布団を今回に限り、30万円で如何でしょうか?と言われたら、どうでしょうか。
たまたま、えみこ様は、布団が欲しかったとしてください。
まじでか、めちゃラッキーやん!と、買いますか?
恐らく買いませんね。
仮に欲しいなと思ったとしても、まずどうします?
名刺かチラシかだけ貰って、即効でググるでしょう。
怪しくないか。また値段は適正か、本物か。
調べて調べて調べ倒して、本物だ、そして本当に安い、と分かったらどうしましょう。
名刺を見て、電話しますね。
さっきの布団、、と、
疑って→確認して→納得して→信じた
これは、信と言えるかと言うと、違うと思うんです。
どうしましょうか、
もう一つ言いましょうか。
知らない人から携帯に電話があって、
まず、出ないでしょうけど、仮に出たとして、
「あ、悪いけど急ぎの用で、どうしても今から言う場所まで来て欲しい。家を出て東に行った二つ目の信号を曲がって、タバコ屋の路地入ってきて、大事な知らせがあるから」と言われたら。どうしましょうか。
すぐ切るでしょう笑
絶対行きませんね。
とりあえずヤバいやつやということは分かります。
しかし、同じ内容で、電話の相手がお母さんだったらどうしましょう。
これは行きますね。
すぐ行きますね。
大体ご婦人に言うと、相手が母なら行くけど、ご主人なら行かないと言われます笑
これが、信ですよ。
これは、自分ですることではなくて、賜るものです。
これがある慶び、安心は尋常ではありません。
浄土宗さんのご本山、知恩院に以前お参りをさせて頂いたとき、門前にこのような法語がありました。
「我が信の無きことを恥ずべき」
法然聖人、いわゆる法然坊源空様という大変な高僧のお言葉です。
悩み苦しみの原因は煩悩だと信じてください
仏教は、色んな宗派がありますがどれも、
悩み苦しみの原因を消したり制御したりして、
悩み苦しみを消したり制御したりする教えです。
悩み苦しみの原因、それは心の中の煩悩です。
たとえば、欲・怒り・怠け・プライドなどが煩悩です。
いきなり煩悩を消すのは無理ですよね。
まずは、日常生活の中で、自分の心に浮かんでは消えていく 欲・怒り・怠け・プライド に気付くようにしてください。
そうすれば少しずつ、欲・怒り・怠け・プライドをコントロールできるようになります。
煩悩をコントロールできると、日常生活の悩み苦しみやストレスをコントロールできるのです。
そのような、煩悩と悩み苦しみの因果関係を信じてみてはどうでしょうか。