告別式のお経は誰に?
お久しぶりに投稿させて頂きます。
今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を
優先させて下さい。
仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。
仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは
扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。
とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても
意味がないように感じられます。
告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。
会葬者へ向かってのお経? でしょうか?
とすれば納得なのですが。
もう一つの疑問です。
般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを
文字通りに見ますと、「色即是空」は、
「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、
「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」
となってしまいます。
しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
摩訶葬儀波羅蜜多心経
悟った人達は皆、自分なんてモンは無いと気付くことで苦を離れました。
どうやって自分を無くすのでしょうか?まず一心に故人への感謝と敬意を念ずることによって、故人の中に自分の心を投げ入れてしまいましょう。それから俺が俺が私が私という垣根の無い大きな自分に気付きましょう。
自分が無いということは、生きるも死ぬも無いということです。
それゆえに故人のためも遺族や会葬者のためも無いのです。
自分が無ければ、自分の生まれも老いも病も死も苦にしようが無いのです。
だからホント言えば葬儀の意味なんてものも無い。読経に効果効能も無い。
葬儀や読経に見返りを求めない。そういうことを葬儀や読経を通じてやってこそ救われます。
葬儀は故人のためか、自分のためか。そんなことを問えば問うほど自分と他者の垣根が高くなります。理屈の方程式は頭の産物です。頭の産物はあくまで頭の中のストーリーであり、今現在の事実ではありません。頭の中のストーリー生産ラインを止めれば、心が自由になります。
何も考えないといういう意味ではなく、心があるがままで、余計な産物を追いかけっこしなければこそ、本来救われている大きな自分に立ち返ることができます。過去・現在・未来のすべての仏さまも、その大きな自分をよりどころにしています。
それゆえにこのように心得ましょう。
大切な人を送り出すその時に、自然と湧き上がってきた故人を悼む気持ちを、素直にそのまま念じたり言葉に乗せましょう。そうするとあなたと故人の垣根を取り払ってしまうことができます。あなたと故人の垣根が無くなってしまえば、あなたと故人は1つの大きな自分です。
お坊さんも会葬者も皆、一心に故人を送り出せば皆で1つの大きな自分です。
目の前に広がる山や川、天や土、自然や人が受け継ぐ営みの中に故人を送り出し、それらに生かされている自分を見出せば、この世界が1つの大きな自分です。
それこそが妄想で上塗りされていない真実の自分です。
葬儀は全世界のため。
願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし
我らと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを 合掌
五感はナイナガラの滝
亡き人への最高の供養は最高のものを提供することでしょう。
同時に亡くなった人が最後にしてあげられることは、最高のものを提供することです。
葬儀式とは「法要」。法の要。人間の無私、無我、無作の心を形にする。
お経もちゃんと学べば万人が救われる教えが説かれているものですから、それをともに皆で養い合う。それが「供養」というものです。
故人様のお立場としては「私は先に逝きます。ですが、ここに仏門を開いておきました。本日仏式で通夜告別式を致しますのは、私のこの世の最期の務めです。この門をくぐり、仏道を歩んで生老病死、四苦八苦のない心に目覚めてください。仏道を歩んで、お釈迦様の教えを学んでみてください。そうすれば誰でも必ず苦しみを離れて悟りを得る事が出来ましょう。」
という施設でもあるのです。
仏門は広く開かれています。誰に対してでも説かれているのです。
自分だけの為に、誰かさんだけのためにということでは寂しいではないでしょうか。
☀は誰のために照らすのでしょう。
水は誰のために存在するのでしょう。
「色即是空」「空即是色」
とは、自己にものが触れた時の「ありよう」を説いているのです。
そのありようが「空」。
ありながらになく、ないながらにない。
残り物もなく、常に全自動で浄化されているありようを空という。
たとえば、鳥が鳴く。
ピー♪
この身心にそれがふれる。
ピー♪
企画した途端にそれが消えている。
確かにこの身に生じたのですが、今は無い。だからと言って、なかったわけではない。
でも終わっている。
その起こり・あらわれが空なるものであって、触れた瞬間にしかそれが生じないから、いつでも救われているということなのです。
また、いつでも、その時限りで、残り物の無い、ものの起こり、現われが、この世のすべての存在、感覚、物質の真実相。
知覚の門にものが通る時、そこに人間の見解が伴わずにそれが通過される。
ピー♪
そして、そこで終わり果てている。
そういう空なるさま、空なるありようとしてこの身に生ずるのが、この世の一切のもののありかたであるということです。
これを悟ることで、一切が「じぎり ばぎり それっきり」になる。
その時限り、その場限り、その事限りでしかないから、この身心は常に自由な活動をしているということです。
ありながらになく ナイナガラにある。
梵
普回向
ア・ドーサ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
告別式のお経のみならず、読経においては、必ずお経と共に回向がセットとなってお勤めされることになります。その回向先を見れば、誰のためのお経となっているのかも分かるものと言えます。告別式の場合の回向は、やはり、故人を対象としているものであり、故人へと、その読経による功徳を及ぼすために読まれるものと言えます。
とは言え、仏教は、一切衆生を救いの対象とした教えでありますので、仏典の読誦による功徳は、常に全ての衆生たちに回向する(普回向)気持ちにて努めさせて頂いております。
普回向
「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」
「色即是空 空即是色」は、もちろん、色だけではなくて、受想行識も、そのようなありようであり、また、全てのモノ・コトも当然にそのありようとして含まれることになります。
『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392
六、「色即是空 空即是色」について・・
「般若心経」と言えば、最も有名なフレーズが「色即是空 空即是色」でございますが、この場合の「色」とは、「物質的な現象のこと」であり、「物質的な現象の本質は、空なるものであり、また、空なる本質であるがゆえに、物質的な現象は、縁起なるものとして立ち現われているのだ」として、つまり、「物質的な現象は、実体、独立自存として成り立っているものではないが、空にして縁起なるものとしては成り立っている」ということ、また、「縁起なるものとして成り立っているがゆえに、空なる本質であると言えるもの」として、更に、私たちの色(物質)以外の「受・想・行・識」の各作用なども、そのようなものであると続けられています。
いずれにしても、この世の全てのモノ・コトは、必ず他に依存することによって成り立っており、他に依存せずに成り立っているものなどどこにもなく、それがゆえに、全てのモノ・コトは、「縁起」なるものとしてあり得ており、そして、それら「縁起」としてあり得ているものは、実体が無く、「空」なるものと言い得るのであります。
川口英俊 合掌
亡くなった人に引導。受想行識亦復如是。
葬儀には、亡くなった人に対して引導を渡す、つまり教えを授ける意味もあります。
日本の場合、四十九日までは中陰と言って、目には見えない微細な子供の姿でこの世に留まっているという考え方もあります。
つまり、亡くなった人が中陰の姿になって近くでお経を聞いている可能性があるのです。
また、お参りしている私達(僧侶や遺族や知人)が念仏や読経した功徳=くどく(善い行いの効果)を、亡くなった人に回し向ける(回向=えこう)という考え方もあります。
私達が善いことをしたとき、それを亡くなった人が見ていて「すばらしいな、見習うべきだな」と喜んだ場合は、亡くなった人の善の心も成長するのです。
善いことをすれば善い癖がつき、善いことを考えても善い癖がつく。
私達が善い行いをして、それを他人に見せて、それを見た他人が善いことを考えたら、その他人の心にも善い癖(功徳)が積もるのです。
また、葬儀は生きている人に対して教えを説く機会にもなります。
なお、般若心経では、色即是空空即是色のあとに、「受想行識もまたかくのごとし」とあります。
最初に色を代表して説明していますが、色受想行識の五蘊=ごうん 全てにおいて◯即是空空即是◯だという説明がされています。
五蘊のうち、色は物質、あとの四つ(受想行識)は心の現象です。
受想行識をまとめて名=みょう と言います。
心と物質のこと(つまり五蘊)を、名色=みょうしき とも言います。
質問者からのお礼
大慈様、願誉浄史様、川口様、丹下様
「回向」(功徳転送)だったのですね。
ご回答ありがとうございます。
どうも五蘊への執着からはなれられません。
しかし、仏教を修習していると、「自分」という
ものが弱くなった感じがします。
常に不放逸を忘れず精進したいものです。
>川口様
川口様のサイトの中で、瞋恚に出会った時は
「こんにちは、さようなら」・・・
この感覚いいですね。