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煩悩

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今、私は「女性とお付き合いしたい」「癒されたい」「寂しさから逃れたい」などといった『煩悩』??とでも言えばよろしいのでしょうか、そういった感情・欲求が激しい状態でして、非常に悩まされています。

そこで私が今考えているのが、現在、悩まされている『煩悩』を理性で律したいというものです。

以前、どこかで聞いた話なのですが、『煩悩』=『欲望』だとして、それがある状態から無い状態に変わったとしても、「有」への執着が、「無」への執着に変わっただけで、本質は何一つ変わっていない、というお話を聞いたことがあります。

ですので、私はそういった『欲望』を無くすのではなく、理性で律していきたいと考えています。

そこで、皆さんにご質問なのですが、私のこの悩みはどうしたら解決できるのでしょうか?どう対応したらよいのでしょうか?

また、このような悩みに対してアドバイスをしてくださる埼玉県内のお寺などはないでしょうか?
私の希望としては、プチ修行のようなものを体験してみたいです。

どうぞ、宜しくお願い致します。

追記:車は持っていないので、電車で行ける所でお願い致します。また、住んでいる所は春日部市です。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、それは煩悩ではない
心情です。
そういう欲求です。
純粋なものですよ。
そう知ることが「理性」ですよ。

『煩悩』=『欲望』ではありません。
そういう風に説く仏教はいんちき仏教です。
そういう人の教えは悟っていないから信じちゃダメです。迷うばかりですよ。
何故なら、欲望はエネルギーだからです。
欲望=煩悩ならば、「生きたい」も煩悩ですかい?
チガウでしょう。
ぶっちゃけ「欲望」=「煩悩」だと思っている、僧侶は多いと思いますが、厳密には違うという事をよく見抜いてください。

『「有」への執着が、「無」への執着に変わっただけで、本質は何一つ変わっていない』
この話も、まるでシロートさんです。
理屈は一見するとご立派ですが、邪法極まりない。
何でもかんでも執着ではないのです。
あなたがこの画面をスマホ、タブレットでみている。
そこから他に目を向ける。それは執着でしょうか?
また別のところに目を向ける。前の事がすっかり残っていない。執着でも何でもありません。
仮に執着だとしても、すっかりその執着が断たれている。それは、人間の行為に何でもかんでも「執着」というラベルを張り付けただけの思考で、そういう縛られた小さな思考をこそ執着というのですよ。
煩悩という事が分かっておられずに、何でもかんでも煩悩にしてはいけません。
あなたを煩い悩ます思い。
それがしたい、欲せられたときは煩悩ではないはずです。
それが、かなわないことが苦しい。そのギャップが煩悩として生じているはずです。
そこを見極めてください。

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有り難し
おきもち

煩悩の定義は学派や宗派、お坊さん個々人によって多少の広さ狭さがありますが、『煩悩』=『欲望』というのは誤解を生みがちのように感じております。十二縁起でいう煩悩とは『無明』と『愛』、そして『取』とされています。

どういうことかと言いますと、「女性とお付き合いしたい」「癒されたい」「寂しさから逃れたい」と感じた段階ではまだそれは『認識』ですが、それは生物の進化の結果ですから当たり前なのです。そういった認識の全てを解決してしまったら植物人間です。仏教はそんな境地を目指してはいません。

そうではなく、認識を追いかけ回して膨らませてしまうことによって苦が生じると考えるのが仏教です。その膨らんでいくものが『煩悩』です。具体的に『愛』は『渇愛』とも言い、「もっと欲しいもっと欲しい」(もういらない、嫌だも表裏一体)の『もっと』の部分に当たります。『取』とは取捨選択の取といっていいでしょうが、愛からさらに一歩進み「これは良い(悪い)物」のような評価をつけたり、あるいは「いらないから壊す」「あいつはクソッたれと悪口を言う」のような行動です。そして『無明』とは根本的な仏教的無知のこと。煩悩が何物かもわからず「煩悩反対!煩悩は辞任しろ!」と叫んでも結局は煩悩(愛・取・無明)をもう一周、活性化させているだけです。

さて、じゃあどうするか?

実はこれはトレーニングあるのみなのです。身体の行い・言葉の行い・意識の行いに正しい精進を繰り返し繰り返しさせて正しい癖をつけるしかありません。理性で律っするとおっしゃっていますが、水(心)の流れを律するのに水(心)をバシャバシャやってもどうにもならんのです。土(身体)なり木(言葉)なりで水の流れ道を作ってやる…そうすると自然と水は真っ直ぐ流れます。だから我々僧侶は修行するのです。理性でどうにかなるなら出家など必要ありません。

埼玉県内のプチ修行のできるお寺さんにつきましてはページ最上部の「お寺」一覧や「お坊さん」一覧をご参照ください。各宗派の違いは水、土、木のどれをとっかかりにして修行を始めるかという点に過ぎませんが、結局、向き不向きでシックリきたり来なかったりするので色々試してみられると良いでしょう。最終的には良い指導者に出会えるかどうかですしね。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私は現在、「女性とお付き合いしたい」「癒されたい」「寂しさから逃れたい」などといった感情・欲求が激しい状態で、非常に悩まされているということは、大慈さんのおっしゃられてる「認識」を追いかけ回して膨らませている状態なのだと思います。

大変、参考になりました。ありがとうございました。
プチ修行の件まで、アドバイスいただき、ありがとうございます。

また、せっかくの大慈さんのご回答の半分ぐらいしか理解できなく、勉強不足を感じます。
申し訳ありません。

また、機会がありましたら、ご回答のほど宜しくお願い致します。

丹下 覚元さん、ご回答ありがとうございます。

『煩悩』=『欲望』じゃないということは、よく分かりました。
ただ、その他の部分が私には難しく、よく理解できませんでした。

分かりやすくいうと、どういうことなんでしょうか?
私はどうすれば、よろしいのでしょうか?

理解できずに、本当に申し訳ありません。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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