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夫の不倫

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有り難し有り難し 73

夫が不倫しています。
証拠もあり、慰謝料もとれる状態ですが、私は離婚したくありません。
夫の方は、私にたいして愛よりも情でいっしょにいる。
今回の人と別れたとしても、また不倫をするだろうし、離婚した方がいいといっています。

話し合いの末、関係を良くしながら不倫相手と別れるのを待つことになりました。
こちらとも、向き合ってくれるとはいっていますが、相手の女性の話をしたりと、こちらが傷つくような事を悪気なくします。

それで、やめてほしいといっても、「なら別れる」でおわりです。

私はまだ、夫のことが好きなので、別れるつもりはないのですが、だんだん、どんな気持ちで一緒にいればいいのかわからなくなってきました。

夫とまた、仲良くするにはどうしたらいいのでしょうか。

夫はもともと、自分の家族と縁が薄く、ほぼ親の愛情をうけず、家族というものがどう言うものか、わかっていないかんじがあります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛とはそういうものではないのではないでしょうか

ハッキリ言っても申し訳ないのですが、失礼ながら、ご自分でご自分を冷静に見つめてみればホストやアイドルに貢ぐ女性と変わらないような気がいたしませんか。グサリ💀
家庭的でない男性はホントーに「家庭的でない」ものです。
結婚とは「家庭的」になることであって恋愛感覚を中心にあっちゃこっちゃの女性と動物的に交尾を繰り返すような理性のない男と無理に同居を続けていくことではありません。
ご主人は自己中心的で、人から必要とされることに喜びを感じている自分ラブ人間です。
芸能人でも異性との遊びを楽しんで結婚をしない男性がいるでしょう。彼らは生きる目的があなたラブではなく自分ラブで異性からモテることに意義を感じているのでやめた方が身のためかと思います。
たとえば、どんなに人気のあるアイドルであっても「自分ラブ人間」は一人の人間の手に負えません。
人から愛される自分が好き、だからです。
そういう人は夫婦愛が始まりません。欲と自己愛だけです。
そういう人はあなたのものにもなりません。(そういう人に限らずですが)
そういう男性と付き合ってきて人生がボロボロになった女性たちはモテる男性・浮気する男性は伴侶として望ましくない、と口にされています。
そういう人類の男女の歴史に学んでみてはいかがでしょうか。
あなたの「好き」より歴史が証明しています。
そこを考えれば「さっさと捨ててしまう」ことも大事かと思います。
それがあなたの女性としての尊厳を保持することにもなりましょう。
アナタ自身を大事にするということはアナタがご主人にとって都合のいい女で終わることの無い人生を選択することではないでしょうか。
今後も一生、自分の人生です。
ナンパ師や浮気男と結婚すれば、その男は結婚後も他の女性をナンパし浮気します。
あなたが言うところの「好き」とは、あなたの名誉欲や我欲を満たしてくれるだけではないでしょういか。それは好きであっても、愛とは質があまりにも異なりすぎるものではないでしょうか。
それが愛かどうか。
たとえば生物を愛するという気持ちは見た目のかわいらしいネコや犬だけをかわいがるというようなことではないと私は思います。
自称ネコ好き・犬好きという人間であっても、その猫が家の中で粗相をした途端に手放すのは本当の生物愛、動物愛ではないように、条件・都合のいい愛らしさとは実は愛ではないものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

結婚は制度ですから。

貴女は旦那さんのことを「制度上のパートナー」として留めたいのですか?
それとも、「一緒に生きて、共に年老いて行く存在」でいて欲しいのですか?

後者であるなら、制度に縛られる必要はないと思いますよ。世の中、結婚向きでない人というのは、いると思いますから。
「愛はないけど情はある」、言葉としてはありそうですが、実態はフリーハンドでしょう?その状態。「そう言ったじゃない」と頼りにできるようなものではないように思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

お二方とおも、ありがとうございます。

何を言われても、わかれるきもちになれない、というのが自分の答えだということがわかりました。

少し時間をもって
冷静に考えられるようになるまで
待ちたいなぁと思います。

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