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正負

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有り難し有り難し 27

いつも、アドバイザーありがとうございました。
相変わらず、毎日死にたくてしょうがないでも、生活しなくてはと過ごしています。
依然、とある本を読みまして。
必ずや良いこととあって悪いことがあると。
良いことが無いとおもっていても、本当は、小さな良いことが重なっていると。
私の人生って。どうやら良くないことが大きい過ぎて、
良いことがあったことが気づかないみたいです。
5年おきに職場で、辛いことあり、このまま我慢すると、人生を辞めてしまうから、防御策で転職していました。
今はちょうどその時期になりましたが、大きな職場でない分、人間関係より、迷惑な事柄に巻き込まれてばかりかと。
毎回、そうなるのは、運命なのでしょうか。自律神経が久々におかしいので、生活に支障をきたしています。
どうしたら、良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ものに良い悪いが生じるのはいつか

それがよいか悪いか。
そのもの、そのことの人間的評価・価値判断しているのはご自身の一時的なラベルなのです。
もし仏教を学ぶのであれば良し悪しを超えた心に目覚めることです。
良し悪しの心に支配されているうちは人間界の苦しみの呪縛から解脱できません。
何をもって良いと思ってしまうのでしょう。
何をもって悪いと思ってしまうのでしょう。
いつそれがよい悪いになるのでしょう。
kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk
例えば、このkの連発は私がちょっと席を話している間に1歳の子供が入力していたのですが、ここにはよいとか悪いはあるでしょうか。
その良し悪しのラベル貼り、シール貼りをやっているのはいつも自分の勝手な思い込みなのです。物事が起こった後に自己流の評価・判断しているだけなのです。他人に様にとっては価値も異なるし、仏の心に目覚めればTHIS IS ITでよいも悪いもないままのそれなのです。
だから、そういう思考を卒業することがお勧めです。
禅に関心があれば当山の坐禅会でそういう、ものの本質、根源を学んでみることで人生はとても有意義になります。
小さな正負、小さな損得、勝ち負け、好き嫌いが無くなるからです。
どうしてなくなるかは坐禅会でのお楽しみに。
坐禅は思考以前の世界に生きることです。
人間があれこれ良しあしの判断を下さす前のそのままの事実を生きることが人間にはできるのです。
するとそこには良い悪いが無くなって何があっても平気になります。
自律神経がどうであっても、ただそういう様子、浮き沈みがあるだけで、そのあとでとやかく問題にするでしゃばりな自分がおとなしくなるので、さほど問題にならなくなるのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

物事には良し悪しはない

物事の良い悪いは、自分で決めた価値判断の中で基準を決めて、そこを基準に良し悪しを言っているのです。
物事には良いも悪いもないのです。
だから感じなくて当然です。あなたが基準を低くすれば良いことばかり、高くすれば悪いことばかりの人生です。

読んでいる本が正しいかどうかはわかりませんが、事実には良し悪しがないということを知らなければなりませんね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

大変、参考になりました。

スミマセン、ありがとうございました。

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