お世話になります。
娘を亡くしてからいろんなことを聞き、自分でもどうすれば前をむいて生きられるのかと考えました。
→私が悲しむと娘も悲しい→いくら悲しんでも娘は帰ってこない→娘や残された今そばにいる家族のために前を向いて生きよう→乗り越えよう→強くなろう→生きがいを見つけよう→でもなんのために?→私が強くなっても誰も救えない、意味がない→私の生き方を見せる娘はもういない→「泣いて過ごすのも笑って過ごすのも同じ一生、それなら笑って過ごそう」こんな言葉、笑ったからってなんかあるの?意味がない→「神様は乗り越えられる試練しか与えない」ってなにこれ?
私が乗り越えられるかの挑戦ですか? そんなことに大事な娘をつかわないでください。乗り越える? 娘を踏み台にして私が成長してなにになりますか?→ああ、だめだ、こんなにひねくれた私を見たら娘がつらくなる→ごめんなさい。→私がつらいと娘もつらい→
このぐるぐる回る思いからぬけだせません。
どうぞ、少しはなれた場所から、ここから抜け出せる矢印と方向を教えてください。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
亀山純史と申します。
以前、故花山勝友先生がそのご著書(『いい生き方いい死に方』 ごま書房刊)の中に次のような逸話を書いておられました。先生には六人のお子さんがおられましたが、次女が四歳の誕生日の直前になるわずか一日の出来事で他界しています。大勢の方が弔問に見える中、奥様はポツリと「子供を失ったことのない人には会いたくない。」ともらされたそうです。花山勝友先生も、同様な気持ちを持ったと言います。
そのような中、
「あなたは、大事なお子さんを亡くして、さぞ、つらくて悲しいことでしょう。しかし、その悲しみさえも、私のように、欲しくて子どもができなかった人間から見ると、大変うらやましいことなのですよ。あなたには、少なくとも四年間の思い出が残っていますが、私たち夫婦には、その思いですらないのです。」
と話された慰問者がおられたそうです。その言葉に「こんな辛いことはない。」と、自分が世界一不幸な人間のような顔をしていた自分は、なんと増上慢であったことかと思ったとのことです。
また、平安朝の女流歌人の和泉式部は、幼い我が子の死を悼んで、「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり」と詠んでいます。「幼くして逝ってしまった我が子は、この私にこの世の無常なることを教えるために、生まれ、そして死んでいった仏様だったのだ。」ということです。
私たちは死別の悲しみを通して、世の無常を痛感させられます。いずれ死すべき身であることはわかっていても、「なぜ?」という思いから逃れることが出来ないのです。私の宗派である浄土真宗においては、人の死に対しての「なぜ?」という思いから逃れることが出来ない私にこそ、阿弥陀如来の慈悲(如何なる人も、必ず迷いの中から救うという誓願)はあると説きます。そして、阿弥陀如来のこの慈悲に出遇えたとき、私の抱く悲しみの感情は(決して消えることはないにしても)、この私を、「亡き故人は仏様として、この私を阿弥陀如来の大いなる慈悲に導いてくれた。」という見方へと向けさせてくれるのではないでしょうか。
記憶、思い出がなければ、悲しみも湧きません。悲しみが深いとは、思い出もそれに比例して深いということです。悲しみが深ければ深いほど、その人はあなたを阿弥陀如来のお慈悲に導いてくれる仏様だったのではないでしょうか。
初めてお会いしてから16日が経ちましたか…
これから私がお話しすることは曹洞宗の話です。ひょっとしたらみのり様のご宗派の教えとは矛盾するかもしれません。そうすると「神は試練を与える」(キリスト教)のようにみのり様を混乱させてしまうかもしれません。もしピンとこなかったなら無視してください。必要であれば回答文を消しますのでいつでもおっしゃってください。
さて、もう5年前に亡くなった方ですが、曹洞宗の大本山総持寺の住職に大道禅師という方がいました。禅師さまはいつも雨が降っては雨に合掌し、雪が降っては雪に合掌する、そんなお方でした。なぜでしょうね…
仏教には「一本の草を手に取り、大きな大きなお寺を建てなさい」という言葉があります。当然、一本の草を材料にお寺を建てられるわけではありません。そうではなく、今、この瞬間に自分が居るこの場を修行の場としなさいということです。なぜなら、私たちが生まれ育ち、帰っていく所は他に無いから。この地球に生まれ、この地球に生き、この地球に帰るのです。
そのような自分の本性のような、母胎への尊敬のような思いを持って、禅師さまは雨が降ったら雨の世界に、雪が降ったら雪の世界に、晴れたら晴れたらなりの世界に合掌なさっていたのだろうなぁ…と私は思っています。
お嬢さまを送り出した先は、そういう今目の前に広がるこの世界です。だからこの世界を大切にし、この世界の中で全力で生かしていただくことで、お嬢さまへの何よりの供養になります。その方向に向かえばいつかきっと、この世界の方からみのり様を助けてくれるはずです。
泣きたい時は泣きたいなりの世界です。全力で泣いてください。それがこの世界を大切にするということです。それが供養です。お供物もお嬢さまへ感謝して丁寧に扱いましょう。ただ、みのり様の心が穏やかになるまでには時間がかかります。とても長い時間がかかるでしょう。でも、私たちお坊さんが一緒にいますから、どうか思いをぶつけに来てください。そして救われなきゃと焦らないでください。私たちにはひねくれても良いですよ。
みのりさま
なごみ庵の浦上です。
書かれた問いを拝読いたしました。
ぐるぐる、ぐるぐると思いが回っていらっしゃいますね。
悲しみ、怒り、後悔、つらさ、言葉に出来ない感情…いろいろなものが混ぜこぜになって、その思いに苦しまれている様子を想うと、私も胸が締めつけられます。
この思いから抜け出す矢印と方向を教えてください、とのことですが…申し訳ないことに私にはそれが出来ません。もし自分がみのりさんの立場になったら、どれほど苦しみ、のたうちまわるか。周囲に苦しい思いを吐き出すでしょうし、仏さまに恨み言を言うかもしれません。
私には、みのりさんの苦しい気持ちを、ほんの僅かでも一緒に感じることしかできないのです。
前にも申し上げたかもしれませんが、大切なお嬢さんが亡くなられたのです。ですから、すぐに前を向いたり、苦しみから抜け出すというのは無理なことだと存じます。
みのりさんが感じている苦しみは、お嬢さんを大切に思う気持ちと表裏一体のものです。苦しいことと存じますが、その苦しみも、寂しさも、つらさも、愛情も、思い出も、他の思いも…
今は全てを抱きしめて過ごすことしか出来ないのではないかと思います。
抱きしめきれず、溢れる思いがあった時。そんな時はまたhasunohaにご相談下さい。
娘さんを亡くされたことは、間違えなく悲しいことです。しかし、それも事実で考えれば、過去の話。
今満たされてないというのは、事実ではなく、思考の話です。
生きて一緒に過ごしていた過去と、今の生活を比べて考えているから、悲しいのです。
しかし、過去のことは、現実にはもうありません。目に見えるもの、聞こえるものはただそこにあるだけ。ありのままです。過去を付け足すことも、比べることもなく存在しています。
そのことに気付き、その事実に徹して生きていれば、満たされている現実に気がつくはずです。
ぜひ、禅を学んでください。死は生と同じく誰にでも起こることです。特別取り上げて、苦しむことでないことも分かるはずです。お釈迦さまが気付かれたことをぜひ学んでください。
みのりさん
娘さんが亡くなったことによる
悲しみ苦しみが伝わってきます。
本当にお辛いと思います。
みのりさんは
娘さんを亡くされた悲しみ、苦しみで
前を向けず、そこからぬけだせないのだと思います。
無理に前を向こうとしたり、ぬけだそうとすれば
もっと辛く苦しくなってしまうのではないでしょうか。
今は、気持ちを聞いてもらったり
一人になりたい時には一人になって
泣きたいときには泣いて
悲しみ、苦しまざるをえないのだと思います。
それくらい、みのりさんの心は
深く傷ついているのでないかと思います。
今は、抜け出す矢印を
傍らにおいてはいかがでしょうか。
また
みのりさんが悲しみ、苦しむことで
娘さんが悲しんだり、苦しんだりすることはありませんよ。
身内と死に別れるのは、動物でも人間でも当たり前の、普通のできごとです。
夏は暑い、梅雨は雨が多い、地球は丸い。
それに対して怒っても仕方ないのです。
悲しみも怒りの一種です。
野生動物の場合、子供の大半は天敵に殺されます。
目指すのは、大人になること。
小さい子供は、飴玉一つを落としてしまっただけでも泣き叫ぶほど悲しむ。
しかし、大人は飴玉1個くらいでは泣かない。
あなたが泣いている娘さんの死も、あなたをはるかに超えた大人(仏様)から見たら、泣くほどのことはないことなのです。
究極の大人である仏様の目線を目指してください。
追記
仏様の目線にすぐにはなれないでしょうが、目指すべき方向は、究極の大人。それを目指し始めたとき、世界はガラリと変わるのではないでしょうか。
法事は、遺された者(生きている者)の修行という側面もあります。
法事は、悲しみや怒りがなくてもできます。
悲しみや怒りが悩み苦しみの原因なのに、悲しみや怒りを宝物のように大事にしていては、悩み苦しみを無くす方向にはなかなか進めません。
娘さんのために悲しまなければいけない、というのは間違った罪悪感です。
どんな理由があっても、悲しみや怒りは悩み苦しみを生む悪魔のような、煩悩なのです。
願誉浄史さま、ご回答ありがとうございました。
親にとって、例えであっても自分の子どもの命を落した飴玉と一緒にされるのは
とてもつらいことです。仏様にとって人の死は泣くほどのことはない。
それは、人の生き死にはたいしたことがないということでしょうか。
そうであるなら、死んだ後に何十年先までおこなわれる法要はなんの為にあるのでしょうか。
生きている人間の自己満足でしょうか。本当にそうなら、死ねば焼いて捨てればすむことですよね。
もし仏様が命をそんなふうに見ているのなら、私はこれからも仏様の目線など目指さず、
身近な人の死を嘆く「人」のままでかまわないです。矢印がまた増えました。
亀山さま、ご回答ありがとうございます。
つらい、悲しいと思っているひとは、別に自分が世界一不幸だとは思っていません。
不幸を比べること自体おかしいのです。
だけど、どんな時にも「あなたよりもっとつらい人がいるよ。」と声をかける人が必ずいます。
自分よりもっと不幸な人がいる、あの人たちよりまし、可哀そうにあんなにひどくなくてよかった。
そんなふうに思ってしまったら、私は自分を許せなくなると思います。
娘が逝って、いろんな人に会い、話を聞き、今まで考えてこなかったことも考えるようになりました。
娘のおかげです。それでもやっぱり、娘の死が私のプラスになるなんてあってはならない気がするのです。
邦元さま、自分のなかで答えがでました。
ご回答いただきありがとうございました。
願誉浄史さま、今は怒りしかないので反論する気力もありません。
重ねてのご回答ありがとうございました。
大慈さま、ご回答ありがとうございました。
気を落ち着けてから、しっかり読もうと思います。
中根さま、ご回答ありがとうございました。
文章を読んでもなにも理解できなくなってきて、頭がどうにかなっているようです。
落ち着いたらちゃんと読みます。
浦上さま、ご回答ありがとうございます。
私も私の周り(特に両親)も、私が1日でも早く立ちなおり、今まで通りの生活にもどるのを
望んでいます。孫を亡くし娘の私までこの調子だと、さぞかしつらいことと思います。
でも、今まで通りは、やはり無理なようです。