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現在婚約中。妥協ができず苦しいです…

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はじめまして。
現在、一回り歳上の方と婚約中です。来年の始めに結婚予定です。
結婚するにあたり、式や結婚後の人生設計等を話し合いはじめたのですが、どうしても妥協ができないのです…

例えば、結婚式場。
以前から気になっていた式場がありそこにしてもらったのですが、披露宴会場がこじんまりしており、彼の希望人数は入りきりません。
元々少人数でやりたかった私と、沢山の人を呼びたかった彼。
大きい披露宴会場も一応あるのですが、そうすると私の中のイメージと違ってしまうため、結婚式の主役は花嫁さんだからと彼が譲ってくれました。

次に、住む場所。
彼は長男なのもあり、将来的に自分の地元に戻りたいと言っているのですが、私は最低でも車で30分の距離感は欲しいです。
正直言えば私の地元に住みたいのですが、そこは仕方ないかなと思っています。
義両親はとても良い人達なのですが、近すぎると気が抜けなくなりそうで、ご近所は嫌なのです。
それも、彼は一応了承してくれています。

子供の人数にしても、沢山子供が欲しい彼と、2人以上は欲しくない私。
親戚付き合いを積極的にしたい彼と、できるだけ干渉せずされずな距離感でいたい私。

今のところ彼が折れてくれている所が大半で、私はというと、それは嫌これも嫌とイヤイヤばかりで自己嫌悪です…
普段なら、歩み寄りの精神でもう少し妥協できていると思うのですが、この話し合いばかりは、ここで折れたら一生後悔するのでは…彼にばかり良いようになってしまったらずるい…と考えてしまい、折れることができません。
こんな幼稚な考えを持つ私は、もういっそ結婚しないほうが良いのではないかとさえ思いはじめています。

一切のこだわり捨てて楽になりたい自分と、ここで捨てたら絶対に後悔すると思う自分の間で苦しいです…
お坊さんにはこだわりはありますか?
やはり、こだわり等捨ててしまったほうが良いのでしょうか?

どうかお助けください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

別れた方がよいでしょう

今の時点でお互いに意見が食い違っているのですから別れた方がよいでしょう。
別れる相手は「自分のルールの多いあなた」ですが。
もちろん、彼と別れる選択肢だってあります。
結婚とは今までの自分のままではいられなくなることです。
結婚する最低条件がまず、そこではないでしょうか。
お互いが愛し合っていれば妥協だのなんだのはないものです。
相手に応ずることができるものです。
こちら側があまり自我自我していないからです。
そもそも結婚式を仏式、神式であげるというのはある種の宗教儀式なのです。
神父さんや坊さんや神主さんの前で誓約をするのは、人間がエゴエゴしているお互いのとげを神仏の前で削って丸くすることを誓うのです。現代人はそれがなく、ファッションやスタイリッシュさで形ばかりの結婚式を挙げてしまうものです。
すでに二者間で意見の相違が生じているということが神仏からのSOS信号だと思うべきです。
あんたたち、結婚ってのはそういうもんじゃないよ、と。
「夫婦間で菩提心(精神的向上心・宗教心)をもつ」ことがなければ、結局「エゴ的自分のまま」をやり続けることになってしまうものです。
結婚式を挙げる際の形式は何式でしょうか。
なぜ古来より第三者の仲立ちが必要とされ、存在するのでしょうか。
人間はもともと自分のことしか見えない存在だからです。
そういう他人様同士が今後一生を共にする。
今の時点で、自分に向き合える機会ができてよかったと思うべきです。
これを自分たちの「こうしたい」という気持ちをみつめあって、ゆずりあう、はなしあう、自分を主張しすぎない、真の妥協点を見出す機会となさっていただければありがたいです。
耳に痛いことを申し上げますのは、お互いが自分たちの「こうしたい」という欲やマイルールや自我・エゴに向き合える勇気をもって頂きたいからです。夫婦に隠し事はあってはなりません。
この件も彼にきちんと打ち明けて共有の話材、❝和財❞にするべきです。
バージンロードを歩むとともに、お互いに仏の道も歩んでください。
仏の道とは、今までの自分中心な自分ときちんと決別して、どんな環境にも溶け込めるように柔軟な心を持つということです。
我々夫婦はその心を一番大事にしておりますから、今のところさしたる大事はありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様

ご回答どうもありがとうございました。
何度も何度も読み返しました。
一度目は思い当たる節が多すぎて心が痛く、正直読むのが嫌になりました(^^; が!
これこそ今の私に必要だった言葉なのだと二度三度と読むにつれ、言葉の温かさを感じました。

彼と話し合い、結婚式を一つの区切りにする事に決めました。
後悔のないよう結婚式ではやりたかった事を全てやり、清々しい気持ちで、わがまま娘から妻になる覚悟を決めようと思います。

まだまだあまちゃんな私ですが、頂いたお言葉を忘れず、これからは妻として一生懸命頑張っていきます。
会ったこともない顔も知らない私に、こんなに素敵な喝を入れてくださり感謝してもしきれません。

この度は本当にありがとうございました。

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