謙虚であれと主張する人に限って偉そうじゃありませんか?
先日、研修で新入社員が、講師から「いつまで天狗やっている」「目を覚ませ」と罵声を浴びせられ、未来ある命を絶ってしまった、という痛ましいニュースが報じられました。
この報道に対して思うところがあり、色々と考えてみたのですが、「決して驕らないということが大事です」と主張する人に限って、そう主張する本人の態度の節々に「驕り」が見てとれるような気がします。
己を客観視できないからこそ、人に対して簡単に「傲慢さを捨てろ」と言えるのかななどとも考えてみましたが、堂々巡りをしてしまい、どうにも考えがまとまりません。
人が社会を生きる上で「謙虚であること」「傲慢さを捨てること」がたびたび大事なものであるように叫ばれますが、謙虚であろうとして、逆に傲慢になっていくのでは本末転倒のように思えます。
このことについて、どのように考え、どういった心構えで生きていくのが正しいのでしょうか。
アドバイスをいただけると嬉しい限りでございます。
今まで生きてきて、つらいこともありました。 でも「つらい」と繰り返すばかりでは状況は好転しないようなので、ちょっとずつでも楽しいことを考えたいところ。 前を向いて楽しく生きていきたいです。
自信を持ちたい、漫画家になる夢を諦めきれない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
先の見通しを立てる
昔、バイト中に崩れた荷物が後頭部を連打しました。すぐに病院に運ばれ、後日、精密検査もしましたが幸い大事はありませんでした。ところがどっこい、副店長が私が提出した労災の申請書を無くしました。人事部に相談させて下さいと申し出ると、副店長は一言も謝らず、悪びれもせず言いました。
「人事部の方々はねぇ、アンタたちが安心して働けるようにもの凄く忙しく働いてくれてんのよ!そんなことで人事部の方々の手を煩わせるんじゃないわよ!人事部の方々に『思いやりを持ちなさい』!!!」
人事部がどんな仕事してるのかは知らんけど、お前にだけは言われたくねーよと思ったものです。お陰様でついに母が立て替えてくれた検査代の3万数千円は返せませんでした。
実際、ブラック企業というものは下手な新興宗教よりよっっっぽどカルト的な体質や手法を持っているものです。そのことは知っておきましょう。「企業 カルト」でググりましょう。
驕りや謙虚であろうとした結果というより、ある種の手法や体制として確立してしまっているわけです。モラハラというやつです。この手の『謙虚』は誠実の意味ではなく、会社の色に染まれの意味と思って良いでしょう。
お釈迦さまはどんな人とも仲良くしなさいとはおっしゃりませんでした。「高め合える人と出会えたならそれは何にも増して素晴らしいことです。しかし、足を引っ張り合う人と一緒にいるくらいなら、独りで修行した方がよっぽどマシです」とおっしゃりました。しかし同時に、ブラック企業であってもすぐに辞めてしまった人や、『筋』を通さなかった人が再就職することに対して、日本企業は徹底的に冷たいことも知っておく必要があります。
一方で、謙虚にしなさいと言う人の全員が悪いわけではありません。
それに何か欠点があるからと言ってその人を全否定していては『学びようがない』のも事実です。昔ながらの職人さんなんか特に気難しいモンです。でも、腕はある。だから師匠にウンザリしながらでも技術を盗む…そんな風土をベースに日本企業は成長してきました。その中で何を代償として何を得るか…娑婆世界で生きるには損得勘定と人生設計も大切です。
自分自身の経験として「謙虚さ」を語るべき
仏教とは自覚の宗教です。釈尊はじめ仏祖と呼ばれる先人たちの学びの成果を習い、「気付き」を得て自分自身の生き方に活かしていくことです。いかに仏様の教えであろうとも、自分の思惑や利益のために他者に強制したり忍従を強いたりした時、仏様の教えは仏様の教えでなくなるのです。
「驕りを捨てる」「謙虚であれ」と語ること自体は正しいと思います。但し、上司が新入社員を意のままに動かし、自分の指示や命令に忍従させようという意図があれば、本来の意味が歪められてしまいます。
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逆に傲慢になっていくのでは本末転倒のように思えます。
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あなたの気付きは正しい。素晴らしい気付きだと思います。
同じような例として「若いうちの苦労は買ってでも、しろ。」という人生訓を聞いたことが有ると思います。あなた自身が多くの苦労を重ねた成果、目標を達成した時にこの人生訓のように感じたなら非常に価値ある言葉となります。しかし、あなたが目の前にいる人に迷惑を掛けたり忍耐を強いたりしている時に、この人生訓を言えば「自分の不当な行為」を正当化したりごまかしたりするための詭弁の言葉となってしまいます。
仏教の教えに、知足(足るを知る)という言葉があります。この言葉を地主が小作料を正当化する目的で小作人に対して言ったり、経営者が人件費を抑制する目的で従業員に語ったりすることがあります。でも、こういう使われ方をした瞬間、知足は仏の教えでは無くなります。
詳しく説明すると、字数制限内には収まりません。
詳しくは、以前拙ブログに書きましたので、こちらをご参照下さい。
足るを知る(前) https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19674236.html
足るを知る(後) https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19688865.html
自分ができないからこそ、誰かに伝えておきたいこともあります
ご相談読ませていただきました。
人に何かを説いたり教えたりという立場になると、その立場なりの難しさがあります。
大事なことを主張していても、当の本人がそれをできていない、というのは、まるでお坊さんのことを言われているようでもあり、耳の痛い話です。
私は僧侶としては若い方でして、色々な場でお話をさせていただいても、「若いのに何を偉そうに」と見られやしないかという心配があります。
ですが、大事なことを主張するのに、小声でオドオドと話をしても、それではやはり相手に届かないと思うのです。
あまり大きな声では言えませんが、決して偉そうにはせず、しかし「堂々と、自信を持って確信していることを説いている」と見える様に、仕草や演出に気をつかったりしています。
上司や先輩が何かを教えようとするとき、「正しいことを教えているんだ」という態度が出るのは、仕方のない部分もあるのかもしれません。
しかしそれも多くは、その人の独創ではなく先人の言葉であるわけです。
多くの人が長い年月大切にしてきた言葉にはきっとそれなりの真実があり、だからこそ、どこかで聞いたような言葉が色々とあるのでしょう。
私も経典からの引用なんかをするときには、「私は頼りないかもしれませんが、これは私の言葉ではなく仏さまの言葉と思って聞いてください」などと言ったりします。
同じ内容のことを、例えば貴方の尊敬する人から聞けば素直に聞けるかもしれません。
聞く側としては、その相手個人の教えではなく、多くの先輩達からの言葉であると思い、
また説く側としても、自分が偉いから教えてるのではなく、多くの先輩達からの言葉を中継しているんだと、そう謙虚になってくれるといいですね。
じじいは何度も念をおす 自分が忘れっぽいからね
じじいは何度も念をおす 自分が忘れっぽいからね
これは、ある歌の歌詞です。
意識的に謙虚になろうとしないと謙虚になれない人だからこそ、その大切さを主張するのかもしれません。
ちなみに、同じ歌の歌詞にこんなフレーズも
じじいは仏壇よく拝む もうじき引っ越す場所だから
質問者からのお礼
>吉田俊英さま
ご回答ありがとうございます。いただきました法話とともに、拝見させていただきました。
自ら気づき実践していくことが大切で、それを他者に強要することは、おかしいというお言葉に納得いたしました。このたび、私が抱いていた違和感の正体は、そういうことだったのかもしれませんね。
「知足」についてのお話も、興味深く拝見させていただきました。
私が現在、抱えている空虚さ……どこまでいっても満足できない、という悩みと重なる部分があり、こちらの記事についても今後の指針として己の生き方に取り入れさせていただきますね。
ありがとうございました。
sramana kadenさま
ご回答ありがとうございます。
聴く側と説く側、双方にお互いを尊重する気持ちが大切なのですね。仰る通りだと思います。
何事もバランスが大切だということでもあるかもしれませんね。
相手にちゃんと伝わるようには、堂々と大きな声で、自信を持って。
しかし、エゴイズムにならないためにも、自分自身がちゃんと出来ているだろうか、と自省する謙虚な気持ちも忘れないように。
今回の事件での新入社員研修の講師や、私が「偉そうだ」と感じてしまった人には、後者の視点が足りなかったのかもしれません。
私も無自覚にバランスを欠いてしまうかもしれませんので、いつか教える立場にたったときには、このたびいただきましたアドバイスを参考にしたいと思います。
大慈さま
ご回答ありがとうございます。
いただきました回答を幾度か読み返させて抱きました。
>ブラック企業というものは下手な新興宗教よりよっっっぽどカルト的な体質や手法を持っているものです。そのことは知っておきましょう。
そうですね。私も肝に銘じておきます。
そして、私自身カルト的な体質に染まり、後輩にモラハラまがいのことをしてしまわないよう、注意していきたいですね…。
>「高め合える人と出会えたならそれは何にも増して素晴らしいことです。しかし、足を引っ張り合う人と一緒にいるくらいなら、独りで修行した方がよっぽどマシです」とおっしゃりました。
お釈迦様もそう仰っていたのですね。その通りだと思いました。
お互いに高め合える相手、足を引っ張り合う相手を見分けるのも難しそうですね。
と申しますのも、私自身、耳障りの良い言葉を大事にして、耳の痛い忠告に対しては反発してしまいがちな悪癖がございますので、その点についても気をつけていきたいと思います。
最後になりますが、徳に偏りすぎても却って無自覚のうちに不徳になるので、時には俗的に損得勘定をしてバランスをとることも大事なのかもしれないですね。
その点についても、意識していきたいと思います。
願誉浄史さま
ご回答ありがとうございます。
なるほど…!逆説的ですね。
いただきました歌詞についても調べてみたところ、間寛平さんの曲なんですね。
面白い歌詞ですね!