良いことをすると良いことがかえってくるのでしょうか?
はじめまして。宜しくお願いします。
さっそくですが相談させていただきたいとおもいます。
タイトルにもあるとおり良いことをすると良いことがかえってくるのかということです。この世には因果応報という考えが存在してると思います。信じる信じないを別にして、大多数の人の内心にはこの考えがあると思います。
良いことをすれば良いことがかえってくる、悪いことをすれば自分に悪いことがかえってくるというものです。
これは本当にそうなんでしょうか?
私は人に奢ったり、何かを買ってあげたりするときにその考えが頭をよぎります。そんな時私はいつも自分は自分に良いことがかえってくるのを望んでいるから、人に何かをしてあげてるんではないか。それは本当に良い人といえるのか?別に良い人になりたいわけではないですが、人から偉いね、良い子だねと言われると罪悪感が生まれます。
正直、見返りがあれば良いなと思います。でも、そう思ってしまう自分が嫌なんです。私は私を好きになりたいのですが、こんな考えもあり好きになれません。どうすれば良いでしょうか?
うまく伝えられない部分もあるかとは思いますが、お答えを頂ければと思いますので宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり(歎異抄)
仏教は因果を説きます。物事には原因があって条件が整って結果が生まれるということです。
「良いことをすると良いことがかえってくる」
というのは善因善果 悪因悪果のことかと思います。善い原因が善い結果を生み、悪い原因が悪い原因を生むということですね。
しかし注意が必要なのはここで言う善悪とは世間的・一般的な善悪ではなく仏教的な善悪です。
すなわち、善とはさとりに近づくこと、悪とはさとりから遠ざかることです。さとりに近づく原因がさとりに近づく結果を生むのは当然ですね。
しかしながら、これを世間的な感覚でとらえてしまうと、「日頃の行いが良いはずなのになんで」とか「なんであの人は悪人なのにあんないい思いばかり」なんて風に感じてしまいますね。
自己や震災にあった人は悪い事をしたのでしょうか?宝くじに当たった人は良い事をしたのでしょうか?
そういうことではないのです。
物事には原因があって結果がある。科学などの法則を無視して本来結ばれるはずのない因果関係が結ばれるということはありません。
それでも善い行いが善い影響を自らに与えるのは事実でしょう。しかし、そこで忘れてはいけないのはそもそも善とは何なのか?ということです。
おっしゃるとおり
見返りを求めて行うことは善いことなのか?
人に何かを買ってあげることはよいことなのか?
あるいは
困っている人を助けて全部やってあげることは善いことなのか?
など、考え出すとわからなくなりますね。
晴れの日はいい日でしょうか?雨の日は悪い日でしょうか?北風は悪い風で南風はいい風でしょうか?
少し真面目に考えると我々が思う善悪とは所詮我々の都合であることに気がつくと思います。その気づき・目覚めから仏教的な善とは、善因善果の善とは何か?と真実を求める歩みが始まるのかもしれません。
はい
良い事をする、素敵な事です。
だまされたと思って、ドンドン、ドンドン、ドンドン 良い事をしてみてください。
ホトケ様は、騙しませんし、いつも貴女のことを護り、観てくださっています。
良い事をすれば、良い縁がドンドン結ばれていきます、貴女自身も、もっともっと輝きます。
縁のある人も、笑顔になります。
ホトケ様も、喜んでくださいます。
見返り、時には考えたって良いですよ。
もっともっともっともっともっと、良い事をしましょうよ。
仏教的な善悪の判断
しろへび様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
全てのモノ・コトは因縁(原因と条件)による結果として成り立っているとして、善き因縁が調えられれば、善き結果となることになりますが、結果には、色々な複雑な因縁が無数に関っていることがあるため、単純に、「これをしたから、こうなる」とは言えないものも中にはございます。
例えば、今生では、ボランティア・慈善事業などの善い行いばかりをしていたとしても、実は過去世、前世で殺人などの悪い行いを多くしてしまっていたのであれば、その報いが今世、あるいは来世へと影響を与えて、悪い境遇の結果が出続けてしまうということだってあり得ます。
もし、早くに善い結果を出したいとするならば、過去の行いの因縁についても考慮していかなければならないことになるのであります。
この過去の行い、現在進行形の自分の行いの集積を「業(カルマ)」と申しますが、この「業」のありようの流れを、善きもの、清らかなものに調えていくための教えが、まさに仏教となります。
吉武文法様が言及されている仏教的な善悪の判断を基に、確実に善き行為を調えていければ、善き流れ、善き結果へと向かうことができるようになって参ります。
「見返り云々」につきましては、難しい概念となりますが、善徳行為の基準として、「三輪清浄の行い」、「無所縁の慈悲による行い」というものがございます。(宜しければ、「三輪清浄」、あるいは「無所縁の慈悲」でご検索されて下さいませ)
または、「戒律」というものは、最低限の仏教的な善悪の判断基準として分かりやすいものであるかとも存じます。
それらの仏教的な善悪の基準を、これから仏教をしっかりと修習して頂く中で、判断できるようにして、できる限りに善き行いを調えて参りたいものとなります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。自分の善行が純粋な気持ちでないことで悩んでいましたが、そういうものなんだと少し気が楽になりました。
これからも良いことをしようとしたとき、自己嫌悪に陥ることがあると思いますが、それと前向きに向き合い良い事をどんどん行なっていきいと思います。