自分の存在を肯定できない
わたしは、高校生の頃に受けたいじめがきっかけでうつ病になりました。
それからというもの普段は明るく元気なんですが、落ち込む時はとことん落ちるようになりました。「死にたい」とも思います。
周りの環境に恵まれてないわけではなくむしろ恵まれています。
夢もあります。
だけど、たまに、そうたまに「自分は存在していいのか?」「いない方がいいのではないか?」など自分の存在を否定してしまいます。
今もそうです。
その気持ちを解決するためにネットで調べていたら以前テレビで見たことのあったこのサイトを見つけました。
自分の存在を中々認めてあげることができません。
むしろ否定してしまいます。
自分が何をしたいかもわからないし、どうしたいかもわかりません。
夢はあるのに、どうしたらいいかがわからなくなります。
矛盾してますよね。
でもこれが今のわたしの状態です。
どうすれば自分を認めてあげれますか?
自信を持てますか?
教えてください
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もう、あなたは認めている。
こんばんは。人間って、いろんな面を持っていますよね。こうしてネット越しでも、「同じ坊さんと言っても様々だなぁ」「同じ属性(30代女性とか)であっても様々だなぁ」と感じます。
さらに、今私はこうして回答を書いていますけれど、やっぱり気が向かないときもありますよ。お返事をするアイデアも、いろんな角度から検討できる時もあれば「もう、こうに違いない!」とか思うこともあります。
なので「どれが本当の自分なんだ!?」って言いたくなる気持ち、分かります。で人間って「1人っきりでいる自分」を「本当の自分」って見なしやすいですよね。あなたの「たまに」も、そういう時なのではないかと想像します。
さて、本題に戻ります。
「矛盾してます」。そう、それがあなたの姿。「矛盾したまま」で、あなたなのです。
落ち着いて考えてみると、「矛盾してはいけない」というポリシーをいつの間にか信奉してしまっていることに気づきませんか?これ、特に若い方に多いと思うのですが。
情報は矛盾しないです。常に「その時の最新情報」だから、発信された時のまま固定されていい。どんどん上書きされる一方です。けれど、私たちは時間の中を連続して生きています。だから「今泣いたカラスが笑った」で構わないのです。映画を見て涙ぐんで、直後にガハハと大笑いしていいのです。これを「矛盾している」とは言わないでしょう?
私見ですが、時々漠然と「私は生きていてもいいのか?」と自分に問うのは、極めて健全なことだと思います。それは自分なりの哲学とか見通しに繋がるからです。それが変化したっていい。「この子のために、私は生きる!」と決心したお母さんが、「孫のために生きる!」と言ったって良いのです。
もう一つ。
人間は、一直線には進まないのだと思います。行ったり来たり(寄り道とは違うイメージで見ています。戻ることもあり)。「しゃがむから次に飛び上がれるんだ」みたいな話です。縮んでいる時と伸びている時、それぞれ「やること」が違うのは然るべし、ですよ。
私も「気が乗らない時は回答しない」です。そんな時に無理に書くとロクなことない。「暫く扱わないでおく」と、同じものでも「また気が乗った時」には夜中であってもスッと書けるものです。
波があるのは当たり前。自分の「いい時」に行動を起こせる人になれると、いいですね。
貴女は、素敵です
辛い体験を、よく乗り越えてこられましたね。
自分って、何でしょう、本当に存在していても良いのか。
わたしも、子どもの頃から、悩み続けています。
ゆいさんと同じ症状で、投薬治療を受けていた事もあります。
そんな時は、誰もいないところで、喉が枯れるまで、叫んでみてください。
思いっきり、泣き叫んでください。
あら不思議。
何かが、観えてきますよ。
答えなんて、いいんですよ、自分を認めなくても。 本当の自信なんて誰も持っていないから。
大丈夫ですよ。
ゆいさんは、とても素敵な女性です。
さあ、叫んでみましょうか。
「縁起」
ゆい様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ゆい様、私たちも含めて、全ての存在は、「縁起」により成り立っているものとなります。
「縁起」とは、「他に縁って起こる」ということを意味する言葉となりますが、存在は、その存在のみにて、独立自存として成り立っているものではなく、様々な無数の他に縁って存在できているということを申します。
もっとも分かりやすいのが、「因縁」(原因と条件)となりますが、また興味が出られたらにて、詳しく学んで頂けましたらと存じます。
まあ、人は一人では生きていけません。誰だって同じです。
それは、つまり、「他に生かされている」ということでもあります。
この生かされてある自分のありようを思う時、否定も、肯定も、本来、あまり意味のないことになります。(難しいことですが、否定できる自分、肯定できる自分という、実体的なものは無いということになります)
とにかく、無理に自分を認めよう、自信を持とうと気張るのではなく、どうすれば、他との関係をバランス良くに調えられて、お互い様でいられるようになるのか、どのようにすれば、善い因縁(原因と条件)を調えられて、善い結果を迎えられるようになるのか、少し、意識を自分の方ばかりに向かわせずに、他との関係について考えられるようにされていかれることをお勧め申し上げたいと思います。
できないこと、無理なことは、他に頼ること。またできること、余裕があることならば、他のためになることを。その意識が大切になるものであると存じます。
その夢の実現、結果へと向けて、善き因縁を調えて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌