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母親がわけわからなかった

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僕が確か小学生か中学生のころです。
僕はよく読書をしてました。学校の図書館でたくさん本を借りて読んでたんです。本を借りた数が学年のトップでちょっと誇らしかったのを覚えてます。
家にいるときです。
確か10時か11時ごろです。当時家では9時過ぎには寝る決まりでした。
僕はそれが、嫌で自分の部屋で部屋の電気を暗くし、机のだけを照らす電気で本を読んでました。
母親が見に来ました。いつもは足音が聞こえるのにその時は聞こえませんでした。足音を消して見に来たんでしょう。
僕はびっくりして固まりました。
「こんな時間になにやってるの?!早くねなさいよ!」
僕は本を読みたいから嫌だと答えました。
すると母親はドアをなぐりました。
そしてこういい放ちました。
「食わしてやってるのに従うのは当然でしょ」
僕はそれがどういうことなのかよくわかりませんでした。
そうなの、と返しました。
すると「当たり前でしょー!そんなの!」といいました。
納得はいきませんでした。しかし母親に逆らう
こともできず、そのまま寝ました。
母親との話ではよく
「お前たちさえ生まれなければ私は好きに遊べるし自由なの。私に感謝しなさい」といったことを話してきました。
母親はこう言うのです
「お前たちを育てたり面倒を見るやつなんて誰もいない。それでも面倒を見てる私に感謝しろ」と。
尊敬というのは本人が気にしててキレるところでした。
母親は自分のことを尊敬しているか、感謝しているかどう思っているかよく聞いてきました。
きっかけはいろいろありました。言葉使い、態度、学校の成績…
僕はずっと嘘をついてきました。尊敬、感謝してると、なにされるかわかりませんでしたから。
感謝もしてなければ尊敬もしていないということ話したことかあります。
その時はとんでもなく怒りだし、座らされ、暴れて短時間も怒鳴られます。ものでよくテーブルを叩いたりするんです。
いつのまにかそれが嫌で、自分が良い子を振る舞うことでその場をしのぐようになりました。
生まれてきてはいけなかった。自分は害なんだと信じていました。
なんだかこれを書いてたら泣けてきました。
一体なんだったんでしょうか


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母親は子供に従順をもとめる

そういうものだと思いましょう。
母親にあなたが高い人間性を求めてもヌカニクーギ―・ノレン・ニウデオッシーです。
こちら側のスタンスを以下のように変えることです。
母親というものはあなたの望むような母親にはならないものです。
理想願っても実際がそうではないのですから苦しむのはあなただけです。
そこにあなたの「求め」が生じて現実の実際が違うことのギャップで苦しみが生じます。
どんなに不完全・未完成・未成熟な毒親であれ、こちら側がのぞむ理想的条件と事実とは別物。
ゆえにあなたは「母親」というものと「母親の人間性」とを分けて考えることがよいと思います。
「母親という人間存在」と「母親の人間性・性格」とを混同しないこと。
理想的な母親のもとに生まれてくるのは宝くじに当たるようなものです。母親との確執の原因は母に理想を求めることなのです。
どんな毒親であれ、あなたの母であることには変わりないのですから、あなたは母親の良い母親性・母性とのみ関わってゆくことです。性格の悪さや今の状態から母親を否定することは間接的な自己否定になりますから、良い結果を生みません。どっちも傷つけないためにも母親の中のどろどろした部分はお母さんが過去に環境や人間関係で培われたものですので、あなたのせいではありません。完ぺきではない不安定な人格は過去からの流れなのです。どんな聖人偉人であっても、その人たちを育てていた環境というものは、必ずしも恵まれたものではありません。あなたもそうです。誰もがそうです。
母親の人格、性格、態度、人間性、過去の体験をあなたが今から変えることなどできない。
お母さんがテレビや世間の情報に多く耳を傾けるようになって「第三者の価値観」を通して「母親として真にあるべき姿」に目覚めてそれが少しずつ改められることが理想的ですが、なかなか思い通りにいかないものです。母は親ゆえに子に対する守りの習性が時としてMADに働くということがあるものなのです。親によっては「子供が従順でない」ことで、いくつになっても気に入らない、不満、不機嫌、ネガティブループが輪廻します。
ゆえに世間の母親の大半が「母親が子供に従順さを求める」という「さが」を理解し、その通りにしてあげられる「こころのゆとり」をあなたが上手に距離を取りながら希望をかなえてあげる位の姿勢が大事です。それが世間を知るということだからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

欲・怒り・怠け・プライドは煩悩

欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩は、悩み苦しみの原因になります。
あなたのお母さんは、自分の煩悩をどうにかしようという発想がなかったのでしょう。
煩悩というセーターを何枚も重ね着して、「この部屋は暑い!なんとかしろ!」と文句言うみたいに。
自分の煩悩の厚着をなんとかすれば、簡単に楽になれるのに、あなたのお母さんにはそういう智慧がなかったのでしょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

確かに母親の人間性はあまり疑ってきませんでした。それが普通だと思っていたからです。
さらにいうなら僕はもう母親と関わりたくないとおもっています。
あいつがどこでなにしてようと知らん。
俺に関わるな。関わるなら叩き出してやるといった感じです。
もし叶うなら、母親は地獄のように苦しんで死んで欲しいです。
母親に翻弄された時間は帰ってきませんし、与えられた屈辱や怒り、苦しさ、不安、恐怖も全て無意味なものです。
苦しんで、絶望して、死んでほしいです

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ