空虚
結局、わたしには何も残らなくて空っぽで、そんな気持ちになったので、誰かに助けて欲しくなって、こちらに相談してしまいました。
自己嫌悪と自己否定と
全部が空回ってしまって、
前にも後ろにも、動けなくなってしまいました。
こんな自分が嫌です。
本当はもっと楽しく生きているはずなのに
本当はもっとご飯も美味しいって感じるはずなのに
生かされている。
生かせていただいているのに
こんな事言っちゃだめですよね。
抽象的ですみません。。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ドーナツの穴
空虚さをかかえておられるのですね。何か空っぽのような思いをお持ちなのですね。
前回ご相談の選択が大きく影響しているのでしょうか…。
私たちの存在というものは仏教では「空」(くう)と表現されたりします。空っぽで実体がないようなものということですね。
しかしこれは「何もない・虚無」ということではなく、何もないからこそ「そこから何でも生み出され得る」という無限の可能性があるともとらえられます。
ドーナツの穴はただの穴です。そこにも何もありません。周りの空気と何もかわらない。しかしながらドーナツがそこにあるとドーナツの穴がたしかにある。今私たちがここいるということはドーナツ(数々のご縁)がたしかにそこに現れ出ているということでしょう。私たちの存在というのはドーナツの実ではなく穴の方なんですね。おかげさまの存在です。
さて、もしもあなたのご両親がお亡くなりになったら、あるいは大切な友人がお亡くなりになったら、あるいは前回の選択の後…
何もなかったものとしてスッキリスパッと割り切れるでしょうか。なかったことにできるでしょうか。
そんなことはないですよね。だからこうして今も影響をうけている。形はなくなっても「はたらき」(効果・作用・影響)は残ります。
夜空に輝く星の光が何千年も前に放たれたもので、私たちの目に届くころにはもうその星は消えてなくなっているかもしれない。でもたしかに今・ここにこうして光は届いています。
空っぽだとしても、私たちはそこから実際に「はたらき」を受けるのです。
では自分はどんな「はたらき」となりたいでしょうか。そして今どんな「はたらき」を受けているでしょうか。
そこには空しさではなく、あたたかさや希望があると私は感じます。
being
「空っぽ」であることに嫌悪感をお持ちのようですが、
実は、
全然、空っぽではありませんよね。
「自分」はこうしたい
「私」は美味しいご飯を美味しいと感じれるはずなのに
「私」は本当はこんなはずじゃない
「私」が生かされている
・・・
「私」を捨てることができていないわけです。
「私」と「他」の関係性を充実させることは濃密ですし、楽しいものですが、
「私でもなく他でもない」
もしくは
「私と他がない」体験というものに、
是非、チャレンジしてほしいと思います。
「(私とか他とかは関係なく)そこにあるだけ ≒ being」
社会生活は、「私が上手くいくこと」に比重が置かれ過ぎていて、
そればかり求めることは、とてもストレスフルです。
新たな視座が、ヒントになれれば、幸いです。
質問者からのお礼
お礼の言葉が遅くなってしまいました。
吉武文法様
ドーナツの穴のような空っぽのところから、もう一度一つ一つ集めて空っぽに向き合ってみました。
依存せずに、全てのことがどうなろうとも、生かされている温かさを噛み締めて、また前に進もうと思いました。
吉武様、私のような質問に向き合ってくださりありがとうございました。
佐々木秀吾様
being.とっても深いです。私と他と、何もかもこうあるべきを捨ててみようと思いました。簡単な性格なら良いのに、自分なダメなところを見直すと苦しくて苦しくて、、また空っぽから産まれてきたこの気持ちを前に向けていこうと思います。
相談にのってくださって本当にありがとうございます。