それでも人はサグラダファミリアを建て続ける
自分の行為や人生に何の意味がなかったとしても。
志半ばで終わりが来たとしても。
長い長い時間をかけて作り上げたものが一瞬で崩れ落ちる可能性があったとしても。
それでも、サグラダファミリアを建てることはやめないんですよね。
自分達の成すべきことを、ただ続けているだけですよね。
私も、そうなれるでしょうか。
周囲の言葉に惑わされず、しかし聞き入れるべきところは聞き入れて、リスクに注意を払いながらも、成すべきところに全力を注ぐ。
矛盾しているようで、そうでないんですよね。
人生万事塞翁が馬。何が良いことなのかわからない。
「どうしようもないね」と全てを「明らめられる」ようになりたいです。諦めきれない心が辛いですが、それじゃ生きていけないので。
本当は凄く恐いですし、未だに「戦争が起こる」という疑いは晴れません。それでも、と言い続けなければならないですよね。
心が壊れそうですし、叫び出したい、ぶちまけたい衝動もあります。それでも。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人は案外なんとかなる
>災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
これは江戸時代の禅僧・良寛(りょうかん)さんの有名な言葉です。私はこの言葉を信じています。
私は「どうしようもないね」というよりは「まぁ、有ったら有ったで素晴らしいけど、無くなったら無くなったで無いなりに何とかなるんスよ」という感覚です。
私は日本の禅の道場と東南アジアの上座部の瞑想寺の両方で修行しました。
禅の道場は神経質方面に振り切れています。トイレ掃除をしました。便器をふいた雑巾やトイレットペーパーの繊維が便器に残りました。ブンなぐ…ゲフンゲフン、厳しくご指導いただきました。そんな世界です。
上座部のお寺はルーズ方面に振り切れています。東南アジアの森のお寺なので虫が凄いです。でも窓枠と網戸の間にコブシ一個分くらいの隙間がありました。出入口のドアの下と床の間に指数本分の隙間があります。当然、虫だらけの布団で寝ます。朝起きると、寝返りして潰されたたくさんの虫が人生の儚さを教えてくれます。これ、殺生じゃね?でも寝てる間は殺意が無いのでセーフ!…う〜ん。。。。。
ぶっちゃけ、どっちでも普通に生きていけました。いや、まぁ日本と東南アジアの風土とのマッチングとか言い出せば色々あるんでしょうが、まぁでもどっちでも生きていけました。
禅寺ではご参拝の女性がたに「なんで永平寺や總持寺の雲水さんってあんなに綺麗なのかしら」といつも言われるほど健康でしたし、上座部は上座部で一緒に行ったお坊さんの水虫が治りかけるほど健康でした。
どっちでも良いんスよ。
そりゃあね、戦争ってのはまた振り切れた状況ですからおっかないですよ。戦争は始めちゃいけないし、始まってしまっても先の大戦のようにズルズル止められなくなるようなのは尚更ダメです。
でも、虫だらけの布団で寝て、犬がウ○チする講堂で瞑想して、裸足で托鉢行ってそこらの水たまりの上澄みで足バシャバシャして「ん、キレイになった」なんてやって、5秒と我慢できないキンキンに冷えた井戸水でシャワーする生活でも問題なく生活できました。だから何とかなる。そう思わんとやっとられんでしょ。だからなんとかなるんです。きっと死んでも死んだなりになんとかなる。ワタシャそう思っとります。お坊さんがそう言うんだからそれでイイじゃん?
拝読させて頂きました。
そうですね、震災や戦災や様々な災いが私達には時場所を選ばずに訪れます。
それは何に依るかは皆目わかりません。
それに恐怖し恐れおののくこともあるでしょう。
私も地震や災害や戦争は怖いです。
大事な者の生命が脅かされないようにとも思います。
それでもそのような災いが降りかかってくることもあるのは覚悟しておかなくてはとも思います。
おっしゃる通りそんな中でも人は必死に生きて行こうとします。
今もTVから流れてくる映像には人が必死に生きて人を助け出そうとして頑張っている姿が映し出されています。
そこに人が生きる姿の答えがあると思います。
一人でも多くの方の尊い生命が救われます様に、そして救われた方々が速やかに処置を受けて回復なさって下さいます様に、そして被害が最小限であります様にと切に願っています。
その中で私達は生きていますから。
拝読させて頂きました。
不安、恐怖、そして絶望の先に必ず救いは与えられ、希望が生まれてそして生きる力が与えられていくと思います。
質問者からのお礼
「なんとかなる」の精神。
パンドラの箱の奥底に残された希望。
信じるにはまだ難しいですし、心が壊れそうですけど、それでも。
絶望は永遠ではない。そう信じて生きていたいです。